ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相
にゃん吉一代記
昭和生まれの男の日記 何にでも興味を示す、ネコ。
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昭和生まれの男の日記 何にでも興味を示す、ネコ。
啄木新婚の家 その3
石川啄木は、本名ではない。
いわゆる、ペンネームである。
啄木という名を使う前には、翠江という名で短歌を発表していた時期もあった。
岩手日報に友人たちとともに、短歌を発表していた。
明治34年(1901年)から35年(1902年)の頃である。
啄木、15歳から16歳の頃であろう。
その後、明治35年(1902年)東京に出た啄木は、作歌も続けるが出版社への就職がうまくいかず、結核の発病もあり明治36年(1903年)に岩手県に帰る。その後、岩手日報に評論を連載したり明星に短歌を発表していた。
この頃から、啄木の名を使いはじめたようである。
啄木が新婚の家に住むのは、まだ先のことである。



玄関の付近から、門を撮影だ。
同じ角度で撮影している。
残念ながら、この門は啄木一家の門ではなかっただろう。



銀座の柳である。
ルパンではないが、三世である。
説明は、説明文を読もう。
まっすぐ撮影したかったが雪に阻まれた。
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玄関先を撮影だ。
何枚も撮影する。




雪がなければ、もう少し外周を撮影できただろう。
次回、ここに来るときは、必ず長靴を持参しようと思う。
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いわゆる、ペンネームである。
啄木という名を使う前には、翠江という名で短歌を発表していた時期もあった。
岩手日報に友人たちとともに、短歌を発表していた。
明治34年(1901年)から35年(1902年)の頃である。
啄木、15歳から16歳の頃であろう。
その後、明治35年(1902年)東京に出た啄木は、作歌も続けるが出版社への就職がうまくいかず、結核の発病もあり明治36年(1903年)に岩手県に帰る。その後、岩手日報に評論を連載したり明星に短歌を発表していた。
この頃から、啄木の名を使いはじめたようである。
啄木が新婚の家に住むのは、まだ先のことである。



玄関の付近から、門を撮影だ。
同じ角度で撮影している。
残念ながら、この門は啄木一家の門ではなかっただろう。



銀座の柳である。
ルパンではないが、三世である。
説明は、説明文を読もう。
まっすぐ撮影したかったが雪に阻まれた。
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玄関先を撮影だ。
何枚も撮影する。




雪がなければ、もう少し外周を撮影できただろう。
次回、ここに来るときは、必ず長靴を持参しようと思う。
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啄木新婚の家 その2
啄木新婚の家である。
石川啄木といえば、詩人として知っている人も多いことだろう。
写真を見たことのある人は多いだろう。
わりと二枚目だと思う。
しかし、啄木の生涯を少し確認すると、彼の詩からは考えられないほどの、いろいろな面が見えてくる。
はちゃめちゃな人生をおくった時期が目立つのだ。
文学者の奥さんにはなりたくないと思うのであった。
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さて、啄木新婚の家の続きである。
前回、外観を撮影したので、そろそろ中に入ると思うだろう。
あまい、にゃん吉は、まだ満足していない。




正面の入り口である。
もともとは、こちらは啄木の一家の玄関ではなかったようだ。





少し離れて、別の場所からも撮影である。
いろいろな角度から、撮影して喜んでいる。
まわりの人が見たら、危険人物に見えるだろう。
それは、仕方ない。




外からの撮影の後、門の中に入ったのだ。
敷地内で撮影である。
館内禁煙、これは当たり前だ。
こんな神聖な場所でタバコを吸ってはいけない。
しかし、啄木はタバコを吸っていた。

家の中の見取り図である。
上の濃い色のあたりが、啄木一家の居住区であったところだ。
右から、玄関、啄木夫妻の部屋、両親と妹の部屋である。


入り口となっている場所である。
玄関ではあるが、実は啄木一家の玄関であったわけではない。

石川啄木の表札がつけられているが、これは後年に取り付けられたものであろう。
啄木の一家は、常に貧困であった。
それは、啄木の責のみではない。
しかし、啄木の奥さんである節子さんには、さらに責がない。
どんな気持ちであっただろうか。
今では啄木は有名である。
そして、啄木の作品の評価も高い。
それが、せめてもの救いであろう。
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石川啄木といえば、詩人として知っている人も多いことだろう。
写真を見たことのある人は多いだろう。
わりと二枚目だと思う。
しかし、啄木の生涯を少し確認すると、彼の詩からは考えられないほどの、いろいろな面が見えてくる。
はちゃめちゃな人生をおくった時期が目立つのだ。
文学者の奥さんにはなりたくないと思うのであった。
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さて、啄木新婚の家の続きである。
前回、外観を撮影したので、そろそろ中に入ると思うだろう。
あまい、にゃん吉は、まだ満足していない。




正面の入り口である。
もともとは、こちらは啄木の一家の玄関ではなかったようだ。





少し離れて、別の場所からも撮影である。
いろいろな角度から、撮影して喜んでいる。
まわりの人が見たら、危険人物に見えるだろう。
それは、仕方ない。




外からの撮影の後、門の中に入ったのだ。
敷地内で撮影である。
館内禁煙、これは当たり前だ。
こんな神聖な場所でタバコを吸ってはいけない。
しかし、啄木はタバコを吸っていた。

家の中の見取り図である。
上の濃い色のあたりが、啄木一家の居住区であったところだ。
右から、玄関、啄木夫妻の部屋、両親と妹の部屋である。


入り口となっている場所である。
玄関ではあるが、実は啄木一家の玄関であったわけではない。

石川啄木の表札がつけられているが、これは後年に取り付けられたものであろう。
啄木の一家は、常に貧困であった。
それは、啄木の責のみではない。
しかし、啄木の奥さんである節子さんには、さらに責がない。
どんな気持ちであっただろうか。
今では啄木は有名である。
そして、啄木の作品の評価も高い。
それが、せめてもの救いであろう。
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啄木新婚の家 その1
石川啄木といえば、詩人として有名である。
「一握の砂」、「悲しき玩具」などが有名な作品となるが、これは彼が亡くなる直前の作品といっていい。
啄木は若くしてなくなったが、多くの作品を出している。
岩手県盛岡市あたりの生まれであるが、盛岡にいた時間は長くはない。
そして、今回の新婚の家にも、3週間ほどしかいなかったとのことだ。
ここで、啄木は、「閑天地」を発表している。
閑天地は、当時、岩手日報を賑せたそうである。
啄木新婚の家を少しずつ紹介するのだ。
盛岡市で、啄木の遺跡といえるものは、今ではここしか残っていない。
生まれた時から半生以上を盛岡で過ごした啄木の遺跡としては、少し悲しい。
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さて、啄木新婚の家を見てみよう。
同じような写真も多くあるが、全く同じではない。と思う。
それでは、はじまりなのだ。




まずは、外から啄木が住んだ家である。
新婚当時に、ほんの数週間、住んだ家である。
間借りしていた家である。
大きな家であるが、この家の中で、啄木夫妻の部屋は、1部屋、両親と妹の部屋が、1部屋であったそうだ。




雪に埋もれた、裏口のような佇まいである。
しかし、ここは、実は啄木一家が玄関として使っていた入り口なのである。
もう少し奥まで入っていきたかったが、スニーカーでは無理であった。

もとは、藁葺屋根だったのだろう。
いつまでも、この遺跡には残っていてほしいものだ。
啄木が住んだのは、明治38年(1905年)のことであるから、そこからでも110年が経過しているのだ。



裏の駐車場から、啄木一家が住んでいたあたりを撮影させてもらった。
こちら側の窓から、啄木は外の世界を見ていたのだろう。





まわりを一周はできなかったので、入り口のほうに戻ってきた。
ここは、開館されている時間であれば、中も見せてくれるのだ。
啄木が触れたであろう、柱に触れることも可能だ。

説明文である。

文字は、読めるであろうか。
にゃん吉、入り口にして興奮の絶頂なのである。
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「一握の砂」、「悲しき玩具」などが有名な作品となるが、これは彼が亡くなる直前の作品といっていい。
啄木は若くしてなくなったが、多くの作品を出している。
岩手県盛岡市あたりの生まれであるが、盛岡にいた時間は長くはない。
そして、今回の新婚の家にも、3週間ほどしかいなかったとのことだ。
ここで、啄木は、「閑天地」を発表している。
閑天地は、当時、岩手日報を賑せたそうである。
啄木新婚の家を少しずつ紹介するのだ。
盛岡市で、啄木の遺跡といえるものは、今ではここしか残っていない。
生まれた時から半生以上を盛岡で過ごした啄木の遺跡としては、少し悲しい。
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さて、啄木新婚の家を見てみよう。
同じような写真も多くあるが、全く同じではない。と思う。
それでは、はじまりなのだ。




まずは、外から啄木が住んだ家である。
新婚当時に、ほんの数週間、住んだ家である。
間借りしていた家である。
大きな家であるが、この家の中で、啄木夫妻の部屋は、1部屋、両親と妹の部屋が、1部屋であったそうだ。




雪に埋もれた、裏口のような佇まいである。
しかし、ここは、実は啄木一家が玄関として使っていた入り口なのである。
もう少し奥まで入っていきたかったが、スニーカーでは無理であった。

もとは、藁葺屋根だったのだろう。
いつまでも、この遺跡には残っていてほしいものだ。
啄木が住んだのは、明治38年(1905年)のことであるから、そこからでも110年が経過しているのだ。



裏の駐車場から、啄木一家が住んでいたあたりを撮影させてもらった。
こちら側の窓から、啄木は外の世界を見ていたのだろう。





まわりを一周はできなかったので、入り口のほうに戻ってきた。
ここは、開館されている時間であれば、中も見せてくれるのだ。
啄木が触れたであろう、柱に触れることも可能だ。

説明文である。

文字は、読めるであろうか。
にゃん吉、入り口にして興奮の絶頂なのである。
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石川啄木が現代に生まれていたら作家になっていただろうか。
文章には、「起承転結」があるのである。
ところが、にゃん吉の文章には、起承転結はない。
いきなり始まって、いきなり終わる。
起結の文章なのである。
いやいや、そんなにはっきりしていない。
でも、この文章そのもので、お金をもらっているわけでもないし、
お叱りのコメントが入るわけでもないので、いいとしよう。
「起承転結」で、松山千春さんを思い浮かべる人は、
かなり昭和の色の濃い人である。
松山千春さんと言えば、「長い夜」であるが、
何時間寝ても眠い病の、にゃん吉にとっては短い夜なのである。
文章には、リズムも必要である。
韻の場合もある。
日本の文章においては、五、七、がリズムを作り出すことが多い。
昭和歌謡の中で育った人にとっては、落ち着ける文字数である。
そして、日本の音階というものも、いくつかの種類はあるにしても、
節は、五、七、に合うものが多いのである。
都節音階、馬子唄、などなど。
昭和歌謡で流行した曲は、どこかに当てはまるものが多い。
ある程度、先の読める音階は安心感を与えるのかもしれない。
ニューミュージックと言われる世代の歌も、この音階から
大きく逸脱してはいないものが流行した気がする。
多少、テンポが速い曲でも安心して聴けるのは、
このような理由からだったのでは、ないだろうか。
「壁際に寝返り打って、背中で聞いている。」
ジュリーこと沢田研二さんの、あの曲も歌詞をはずして
メロディーのみを少しテンポを遅らせて聴いてみると、
「馬子唄」を思い浮かべるのは、にゃん吉だけであろうか。
例外の部分もあるのだが、的外れでもないと思う。
さて、石川啄木であるが、彼は貧しい家庭に育った。
天野にゃん吉も、貧しいのであるが、今の時代と啄木の時代は違う。
石川啄木は、和歌で有名である。
「一握の砂」、「悲しき玩具」が彼を有名にしたが、
啄木が生きているうちに、有名になったわけではない。
啄木は小説も書いている。
自身をモデルにしたような、少しナルシスティーな作品もある。
社会に出る前の啄木は、優秀な人であっただろう。
文学的な活動を精力的に行っていたようである。
いろいろなエピソードがあったようであるが、
全ては、過去のこと。どれが真実かわからないこともある。
革命、当時の日本では大逆事件の幸徳秋水が有名である。
啄木も少なからず影響を受けていたようだ。
変えたいという思いと、変えられない絶望。
そして、矛盾と冤罪。
啄木が生きた日本は、今の日本とは違う。
啄木の歌の中にも、革命の文字は、随所に見受けられる。
今となっては、啄木が大逆事件をどのように考えていたかは謎である。
さて、石川啄木である。
彼の感性に関して、優れたものを感じる人は多いであろう。
「一握の砂」が刊行されたのは、啄木が24歳の時である。
そして、26歳で啄木は没している。
あまりに若い死である。
啄木の死は、かなり悲しい。
薬代さえ用立てることができず、身内に看取られて、
ひっそりと逝ってしまったのである。
彼の感性は、自身のためにはならなかったと言える。
そして、残ったもの。
啄木の借金は、当時としては膨大とも言えるものである。
そして、友人たちに対しても、誇れたものとは言えないであろう。
友人は、啄木を理解していても友人の身内は啄木を許せなかった。
第三者から見れば、啄木は遊び人であった。
ここで、にゃん吉は考える。
啄木が現在の日本に生まれていたならば。
頭のいい啄木である。まずは名を上げる仕事をしたであろう。
今の日本であれば、伝統的なものの継承は有利ではない。
この時点で、作家になろうとは思わないと考える。
啄木の借金の多くは、彼自身の遊行費である。
そんな中でも、「働けど働けどわが暮らし楽にならず。」の、名台詞。
啄木は、根っからの歌人であり作家であると感じる。
しかし、今の日本で、それが受け入れられるか。
今の日本の現状では、受け入れられることは難しい。
むしろ、他の詩からの矛盾を指摘されるであろう。
でも、頭のいい啄木である。
現在に生まれていたなら、そんな戯言の詩は発表しない。
東海の小島の磯で、蟹と戯れても、じっと手は見ないのである。
そして、作家にならないにしても感性は、人並み以上である。
何らかの仕事で成功するかもしれない。
コンピューター関連の仕事をするかもしれないのである。
きっと、感性は斬新的な新しいものを生み出すのであろう。
しかし、啄木はIPS細胞を作ることはできないであろう。
自己の到達点は、決まっているのかもしれない。
若くして天才と思われる人は、残念ながら若くして世を去る。
悲しき玩具は、啄木の到達点である。
そして、それは限界といえるのかもしれない。
にゃん吉の到達点は、今日のこの日かもしれないのである。
それでも、笑って迎えたい。
石川啄木。
不思議な人である。
他の多くの人より優れた観察力、表現力を持ちながら、
自身を高めることなく、むしろ蔑みながら世を去っている。
それでも、多くの人に少なからず影響を与えている。
もし石川啄木が現在に生まれていたならば、作家にはなっていないであろう。
それでも、他人に影響を与える人になっているのではないかと推察する。
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ところが、にゃん吉の文章には、起承転結はない。
いきなり始まって、いきなり終わる。
起結の文章なのである。
いやいや、そんなにはっきりしていない。
でも、この文章そのもので、お金をもらっているわけでもないし、
お叱りのコメントが入るわけでもないので、いいとしよう。
「起承転結」で、松山千春さんを思い浮かべる人は、
かなり昭和の色の濃い人である。
松山千春さんと言えば、「長い夜」であるが、
何時間寝ても眠い病の、にゃん吉にとっては短い夜なのである。
文章には、リズムも必要である。
韻の場合もある。
日本の文章においては、五、七、がリズムを作り出すことが多い。
昭和歌謡の中で育った人にとっては、落ち着ける文字数である。
そして、日本の音階というものも、いくつかの種類はあるにしても、
節は、五、七、に合うものが多いのである。
都節音階、馬子唄、などなど。
昭和歌謡で流行した曲は、どこかに当てはまるものが多い。
ある程度、先の読める音階は安心感を与えるのかもしれない。
ニューミュージックと言われる世代の歌も、この音階から
大きく逸脱してはいないものが流行した気がする。
多少、テンポが速い曲でも安心して聴けるのは、
このような理由からだったのでは、ないだろうか。
「壁際に寝返り打って、背中で聞いている。」
ジュリーこと沢田研二さんの、あの曲も歌詞をはずして
メロディーのみを少しテンポを遅らせて聴いてみると、
「馬子唄」を思い浮かべるのは、にゃん吉だけであろうか。
例外の部分もあるのだが、的外れでもないと思う。
さて、石川啄木であるが、彼は貧しい家庭に育った。
天野にゃん吉も、貧しいのであるが、今の時代と啄木の時代は違う。
石川啄木は、和歌で有名である。
「一握の砂」、「悲しき玩具」が彼を有名にしたが、
啄木が生きているうちに、有名になったわけではない。
啄木は小説も書いている。
自身をモデルにしたような、少しナルシスティーな作品もある。
社会に出る前の啄木は、優秀な人であっただろう。
文学的な活動を精力的に行っていたようである。
いろいろなエピソードがあったようであるが、
全ては、過去のこと。どれが真実かわからないこともある。
革命、当時の日本では大逆事件の幸徳秋水が有名である。
啄木も少なからず影響を受けていたようだ。
変えたいという思いと、変えられない絶望。
そして、矛盾と冤罪。
啄木が生きた日本は、今の日本とは違う。
啄木の歌の中にも、革命の文字は、随所に見受けられる。
今となっては、啄木が大逆事件をどのように考えていたかは謎である。
さて、石川啄木である。
彼の感性に関して、優れたものを感じる人は多いであろう。
「一握の砂」が刊行されたのは、啄木が24歳の時である。
そして、26歳で啄木は没している。
あまりに若い死である。
啄木の死は、かなり悲しい。
薬代さえ用立てることができず、身内に看取られて、
ひっそりと逝ってしまったのである。
彼の感性は、自身のためにはならなかったと言える。
そして、残ったもの。
啄木の借金は、当時としては膨大とも言えるものである。
そして、友人たちに対しても、誇れたものとは言えないであろう。
友人は、啄木を理解していても友人の身内は啄木を許せなかった。
第三者から見れば、啄木は遊び人であった。
ここで、にゃん吉は考える。
啄木が現在の日本に生まれていたならば。
頭のいい啄木である。まずは名を上げる仕事をしたであろう。
今の日本であれば、伝統的なものの継承は有利ではない。
この時点で、作家になろうとは思わないと考える。
啄木の借金の多くは、彼自身の遊行費である。
そんな中でも、「働けど働けどわが暮らし楽にならず。」の、名台詞。
啄木は、根っからの歌人であり作家であると感じる。
しかし、今の日本で、それが受け入れられるか。
今の日本の現状では、受け入れられることは難しい。
むしろ、他の詩からの矛盾を指摘されるであろう。
でも、頭のいい啄木である。
現在に生まれていたなら、そんな戯言の詩は発表しない。
東海の小島の磯で、蟹と戯れても、じっと手は見ないのである。
そして、作家にならないにしても感性は、人並み以上である。
何らかの仕事で成功するかもしれない。
コンピューター関連の仕事をするかもしれないのである。
きっと、感性は斬新的な新しいものを生み出すのであろう。
しかし、啄木はIPS細胞を作ることはできないであろう。
自己の到達点は、決まっているのかもしれない。
若くして天才と思われる人は、残念ながら若くして世を去る。
悲しき玩具は、啄木の到達点である。
そして、それは限界といえるのかもしれない。
にゃん吉の到達点は、今日のこの日かもしれないのである。
それでも、笑って迎えたい。
石川啄木。
不思議な人である。
他の多くの人より優れた観察力、表現力を持ちながら、
自身を高めることなく、むしろ蔑みながら世を去っている。
それでも、多くの人に少なからず影響を与えている。
もし石川啄木が現在に生まれていたならば、作家にはなっていないであろう。
それでも、他人に影響を与える人になっているのではないかと推察する。
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石川啄木が現在の日本に生まれていたら
石川啄木が現在の日本に生まれていたら、果たして作家になっていただろうか。
こんなことを考えるに至った自分の思考が不思議であった。
今朝のことである。にゃん吉はカメラを構えた。






開花を目前にしたような紫陽花である。
この時、頭の中に歩く人影が浮かんだ。
深夜に、湯島の切通を、黙々と歩く石川啄木である。
上野広小路から本郷の自宅まで、終電後は徒歩で帰宅した啄木である。
と、ここまではいいのであるが、紫陽花から湯島の切通、啄木に
結びついたわけが、わからない。
人間の心理とは摩訶不思議なものである。
湯島あたりで紫陽花を見た記憶はない。





にゃん吉、通勤の途中である。
啄木のように、ふと気が変わり河岸を、さ迷うわけではない。
しかし、通勤つながりであるのだ。
それより、紫陽花である。
そういえば、昨年、盛岡に行った。
その時に、初夏の小ぶりな紫陽花を見たのであった。
盛岡と言えば、石川啄木の出身地。
そう、開花前の小さく見える紫陽花は、
盛岡で見た、小ぶりな紫陽花を連想させたのである。
う~ん、すっきり。
本題の、石川啄木は、現在の日本に生まれていたら、
果たして作家になっていただろうか。は、
次の機会に回すのだ。
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こんなことを考えるに至った自分の思考が不思議であった。
今朝のことである。にゃん吉はカメラを構えた。






開花を目前にしたような紫陽花である。
この時、頭の中に歩く人影が浮かんだ。
深夜に、湯島の切通を、黙々と歩く石川啄木である。
上野広小路から本郷の自宅まで、終電後は徒歩で帰宅した啄木である。
と、ここまではいいのであるが、紫陽花から湯島の切通、啄木に
結びついたわけが、わからない。
人間の心理とは摩訶不思議なものである。
湯島あたりで紫陽花を見た記憶はない。





にゃん吉、通勤の途中である。
啄木のように、ふと気が変わり河岸を、さ迷うわけではない。
しかし、通勤つながりであるのだ。
それより、紫陽花である。
そういえば、昨年、盛岡に行った。
その時に、初夏の小ぶりな紫陽花を見たのであった。
盛岡と言えば、石川啄木の出身地。
そう、開花前の小さく見える紫陽花は、
盛岡で見た、小ぶりな紫陽花を連想させたのである。
う~ん、すっきり。
本題の、石川啄木は、現在の日本に生まれていたら、
果たして作家になっていただろうか。は、
次の機会に回すのだ。
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啄木新婚の家 その8
啄木新婚の家である。
岩手日報に掲載された随筆「閑天地」にその家の様子が記されている。
啄木の新婚当時の四畳半の部屋だ。
----青空文庫より------
(十一) 我が四畳半 (二)
大抵の家の畳は青波静かなる海の色なるものなれど、我が室のは薄き焦茶色なり。この色、年頃なる女の浴衣(ゆかた)の染などに用ゐては至つてハデに好きものなれど、畳の色にしては好まぬ人多し。されど数多の美しき人の真白き足に擦(す)れて斯(か)くなりたりと思へば、さまで悪しきものにてもあらじ。窓の下に方一尺五寸に切りたる炉(ろ)あり、一日に一度位は豆大(とうだい)の火種もなくなりて、煙草を吸ひつけるに燐寸(マツチ)を擦る事はあれど、大方は昼も夜も、五合入りの古鉄瓶にさうさうとして断続調を成す松風の楽を聴く、この古鉄瓶も又興こそあれ。これ我が老いたる慈親が初めて世帯もちたる時、伯父にあたる北山あたりの老僧に貰へる物とか、されば我が家の物となりてよりも、既に少なくとも四十年一万四千六百日の間、一日の障りなしに断へず楽しき団欒(まどゐ)の室に白湯(さゆ)の香を漲らせ、清閑の韻をひゞかせたる永き歴史を有するなり。この室に起居を同うする者三人あり。一人は我なり、二人は女なり、その内の一人は妹なり。従つて三脚の机あり。一脚は左の隅の窓の下にありて、日影門(ひかげもん)あたりの女学校の教科書と新旧の女の雑誌二三と『歌の栞(しをり)』など埒(らち)もなく本挟(ほんばさみ)に立てられ、『水汲むギリシヤ少女』と云ふ名画の写真や一重芍薬(ひとへしやくやく)の艶なるを掴(つか)み挿(ざ)しにしたる水瓶など筆立や墨汁壷(インキつぼ)に隣りて無雑作に列べらる。右の隅の一脚には、数冊の詩集、音楽の友、明星、楽譜帖などが花形役者にて、小説もあり、堅くるしき本もあり。日本大辞林が就中(なかんづく)威張つて見ゆれども、著者のひが目には『あこがれ』尤もつとも目につく。これらの堆(う)づたかき中に、クミチンキと貼札したる薬瓶あり。知らぬ人は、私は大食をして胃病に相成り候ふと広告するが如しとも見るならん。秘蔵のヴアイオリン時として此等の上に投げ出されてある事あり。奥ゆかしきは小瓶にさしたる淡紅の野茨の花、風吹けば香ひ散つて其主のほつれ髪をそよがすに、更に/\奥ゆかしきは一封の、披(ひら)かば二十間もやありぬらむ、切手五枚も貼りたる厚き古手紙也。発信人は誰なりしや、何事が封じ込まれてあるにや。我は知らず。知れども知らず。流石(さすが)の我もこの天機だけは洩らしかぬる也。
----青空文庫より------
さて、訳してみようか。
ちなみに、にゃん吉は国語は好きだが、古文や漢文は大の苦手である。
娘Aは、国語の先生だが、それは関係ない。
古文も英文もフィーリングなのだ。
間違いも多々あるだろう。
そこは、許してたもれ。
-----------------
(十一) 我が四畳半 (二) 現代語訳 天乃にゃん吉
多くの家の畳というのの色は、波立たない海のような青い色をしているものだが、私の部屋の畳の色は薄い、こげ茶色だ。この色は、若い女性が着用する浴衣などの色としては、派手でしゃれているように見えるが、畳の色としては古ぼけているようで好まない人が多い。昔から女房と畳は新しいほうがいいと言われているのだ。しかし、何人もの美しき女性の白い足にすれて、畳がこの色になったと思えばどうであろう。格別に悪い色にも思えなくなってくる。部屋の窓の下に、45cm角ほどの囲炉裏(いろり)がある。日に一度ぐらいは、豆炭が消えて火種もなくなり、タバコを吸うときにマッチを使うこともあるが、たいていは一日中、火がついている。そして、上に置かれた5合(約0.9リットル)の水が入る古い鉄のヤカンを沸かし続けている。ヤカンはそうそうと音を奏で続ける。この古い鉄のヤカンもおもしろい。私の老いた両親が初めて世帯を持った時に、伯父にあたる北山あたりの年取った坊さんに貰ったものだと聞いている。そう思えば、この鉄のヤカンは私のものとなるよりも少なくとも40年前から、休むことなく団欒の部屋に白湯の香りをめぐらせ、静かに音を響かせていたことになる。とても、長い歴史をもつ鉄のヤカンなのだ。この部屋で寝起きをともにするのは、三人だ。一人は私である。二人は女性だ。その内の一人は私の妹である。三人がいるので、三卓の机がある。ひとつは左の隅の窓の下にある。机には日影門(現在の盛岡市中央通1丁目付近)あたりにある女子高の教科書と、女性雑誌が数冊、そして歌の栞(詩集みたいなものであろうか。)などが雑然と本棚に並べられている。『水汲むギリシヤ少女』という名画の写真や、しゃくやくが挿された一輪挿し、筆立てやすずりなども本棚のとなりに雑然とある。右隅に置かれた机には、数冊の詩集、音楽の友、楽譜、明星(当時の文学紙)などが並んでいる。また、小説もあるし難しそうな本も置かれてある。日本大辞林という辞典が目に付くのであるが、筆者のひいき目か、私には「あこがれ」が最も目に付く。(あこがれは、啄木の最初の歌集)。これら多数の本の間に、「クミチンキ(昔の胃腸の薬)」と書かれた薬ビンがある。世間の人は、私が食べ過ぎて胃病になったのだと言うかもしれないが、そう見えるかもしれない。机の主の秘蔵のバイオリンが、この机の上に置かれていることもある。花瓶に挿された野バラの花が嬉しい。風が吹けば、机の主のほつれ髪が舞うのと一緒に心地よい香りがはじける。さらにさらに嬉しいのは、大切に置かれてある厚い手紙の束である。差出人は、誰なのか、手紙の内容はなにか。私は知らないことにしておこう。いくら私でも、それについて語ることは、はばかれる。
-------------------
と、フィーリングのみで現代語訳をしてみたが、なんか妹はこけ落として、節子さんばかりを褒め称えているようで、途中から疲れてきた。自分が出した手紙を嫁さんが大切にとってあることを自慢するか?ふつう。やはり啄木はナルシストであった。
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さて、啄木新婚の家の続きである。
文章が長くなりすぎて、おもしろくないかもしれないが、今回は啄木が住んだ部屋からはじまる。



ここが、啄木の部屋なのである。
嬉しくて同じような写真を3枚も撮ってしまった。
この部屋の柱や壁には啄木自身も触れているだろう。
感動の部屋である。

今は机は一脚しか置かれていない。
炉は、昔からあったものであろう。
鉄瓶は、昔からのものではないと思われる。

啄木夫妻の部屋から入り口側の部屋を見る。

ちょっと角度を変えて、啄木の部屋を撮影である。



奥は啄木一家が玄関として使っていたところである。
同じような写真が、この先数回続くと思われる。
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岩手日報に掲載された随筆「閑天地」にその家の様子が記されている。
啄木の新婚当時の四畳半の部屋だ。
----青空文庫より------
(十一) 我が四畳半 (二)
大抵の家の畳は青波静かなる海の色なるものなれど、我が室のは薄き焦茶色なり。この色、年頃なる女の浴衣(ゆかた)の染などに用ゐては至つてハデに好きものなれど、畳の色にしては好まぬ人多し。されど数多の美しき人の真白き足に擦(す)れて斯(か)くなりたりと思へば、さまで悪しきものにてもあらじ。窓の下に方一尺五寸に切りたる炉(ろ)あり、一日に一度位は豆大(とうだい)の火種もなくなりて、煙草を吸ひつけるに燐寸(マツチ)を擦る事はあれど、大方は昼も夜も、五合入りの古鉄瓶にさうさうとして断続調を成す松風の楽を聴く、この古鉄瓶も又興こそあれ。これ我が老いたる慈親が初めて世帯もちたる時、伯父にあたる北山あたりの老僧に貰へる物とか、されば我が家の物となりてよりも、既に少なくとも四十年一万四千六百日の間、一日の障りなしに断へず楽しき団欒(まどゐ)の室に白湯(さゆ)の香を漲らせ、清閑の韻をひゞかせたる永き歴史を有するなり。この室に起居を同うする者三人あり。一人は我なり、二人は女なり、その内の一人は妹なり。従つて三脚の机あり。一脚は左の隅の窓の下にありて、日影門(ひかげもん)あたりの女学校の教科書と新旧の女の雑誌二三と『歌の栞(しをり)』など埒(らち)もなく本挟(ほんばさみ)に立てられ、『水汲むギリシヤ少女』と云ふ名画の写真や一重芍薬(ひとへしやくやく)の艶なるを掴(つか)み挿(ざ)しにしたる水瓶など筆立や墨汁壷(インキつぼ)に隣りて無雑作に列べらる。右の隅の一脚には、数冊の詩集、音楽の友、明星、楽譜帖などが花形役者にて、小説もあり、堅くるしき本もあり。日本大辞林が就中(なかんづく)威張つて見ゆれども、著者のひが目には『あこがれ』尤もつとも目につく。これらの堆(う)づたかき中に、クミチンキと貼札したる薬瓶あり。知らぬ人は、私は大食をして胃病に相成り候ふと広告するが如しとも見るならん。秘蔵のヴアイオリン時として此等の上に投げ出されてある事あり。奥ゆかしきは小瓶にさしたる淡紅の野茨の花、風吹けば香ひ散つて其主のほつれ髪をそよがすに、更に/\奥ゆかしきは一封の、披(ひら)かば二十間もやありぬらむ、切手五枚も貼りたる厚き古手紙也。発信人は誰なりしや、何事が封じ込まれてあるにや。我は知らず。知れども知らず。流石(さすが)の我もこの天機だけは洩らしかぬる也。
----青空文庫より------
さて、訳してみようか。
ちなみに、にゃん吉は国語は好きだが、古文や漢文は大の苦手である。
娘Aは、国語の先生だが、それは関係ない。
古文も英文もフィーリングなのだ。
間違いも多々あるだろう。
そこは、許してたもれ。
-----------------
(十一) 我が四畳半 (二) 現代語訳 天乃にゃん吉
多くの家の畳というのの色は、波立たない海のような青い色をしているものだが、私の部屋の畳の色は薄い、こげ茶色だ。この色は、若い女性が着用する浴衣などの色としては、派手でしゃれているように見えるが、畳の色としては古ぼけているようで好まない人が多い。昔から女房と畳は新しいほうがいいと言われているのだ。しかし、何人もの美しき女性の白い足にすれて、畳がこの色になったと思えばどうであろう。格別に悪い色にも思えなくなってくる。部屋の窓の下に、45cm角ほどの囲炉裏(いろり)がある。日に一度ぐらいは、豆炭が消えて火種もなくなり、タバコを吸うときにマッチを使うこともあるが、たいていは一日中、火がついている。そして、上に置かれた5合(約0.9リットル)の水が入る古い鉄のヤカンを沸かし続けている。ヤカンはそうそうと音を奏で続ける。この古い鉄のヤカンもおもしろい。私の老いた両親が初めて世帯を持った時に、伯父にあたる北山あたりの年取った坊さんに貰ったものだと聞いている。そう思えば、この鉄のヤカンは私のものとなるよりも少なくとも40年前から、休むことなく団欒の部屋に白湯の香りをめぐらせ、静かに音を響かせていたことになる。とても、長い歴史をもつ鉄のヤカンなのだ。この部屋で寝起きをともにするのは、三人だ。一人は私である。二人は女性だ。その内の一人は私の妹である。三人がいるので、三卓の机がある。ひとつは左の隅の窓の下にある。机には日影門(現在の盛岡市中央通1丁目付近)あたりにある女子高の教科書と、女性雑誌が数冊、そして歌の栞(詩集みたいなものであろうか。)などが雑然と本棚に並べられている。『水汲むギリシヤ少女』という名画の写真や、しゃくやくが挿された一輪挿し、筆立てやすずりなども本棚のとなりに雑然とある。右隅に置かれた机には、数冊の詩集、音楽の友、楽譜、明星(当時の文学紙)などが並んでいる。また、小説もあるし難しそうな本も置かれてある。日本大辞林という辞典が目に付くのであるが、筆者のひいき目か、私には「あこがれ」が最も目に付く。(あこがれは、啄木の最初の歌集)。これら多数の本の間に、「クミチンキ(昔の胃腸の薬)」と書かれた薬ビンがある。世間の人は、私が食べ過ぎて胃病になったのだと言うかもしれないが、そう見えるかもしれない。机の主の秘蔵のバイオリンが、この机の上に置かれていることもある。花瓶に挿された野バラの花が嬉しい。風が吹けば、机の主のほつれ髪が舞うのと一緒に心地よい香りがはじける。さらにさらに嬉しいのは、大切に置かれてある厚い手紙の束である。差出人は、誰なのか、手紙の内容はなにか。私は知らないことにしておこう。いくら私でも、それについて語ることは、はばかれる。
-------------------
と、フィーリングのみで現代語訳をしてみたが、なんか妹はこけ落として、節子さんばかりを褒め称えているようで、途中から疲れてきた。自分が出した手紙を嫁さんが大切にとってあることを自慢するか?ふつう。やはり啄木はナルシストであった。
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さて、啄木新婚の家の続きである。
文章が長くなりすぎて、おもしろくないかもしれないが、今回は啄木が住んだ部屋からはじまる。



ここが、啄木の部屋なのである。
嬉しくて同じような写真を3枚も撮ってしまった。
この部屋の柱や壁には啄木自身も触れているだろう。
感動の部屋である。

今は机は一脚しか置かれていない。
炉は、昔からあったものであろう。
鉄瓶は、昔からのものではないと思われる。

啄木夫妻の部屋から入り口側の部屋を見る。

ちょっと角度を変えて、啄木の部屋を撮影である。



奥は啄木一家が玄関として使っていたところである。
同じような写真が、この先数回続くと思われる。
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啄木新婚の家 その7
啄木新婚の家である。
この新婚の家で過ごしている頃に啄木は岩手日報に随筆「閑天地」を発表している。
そして、途中の章より、この家での生活についても、書いている。
----------青空文庫より------------
(十) 我が四畳半 (一の上)
我が室は四畳半なりと聞かば、読者は、『閑天地』の余りに狭きに驚きやすらむ。昔者(むかし)はカーライル、弊衣を着、破帽をいたゞいて、一日馬車を竜動(ロンドン)街頭に駆(か)る。一市民見て声をあげて笑ふて曰く、かの乞丐(かたゐ)の如くして傲然(がうぜん)車上にあるは誰ぞ、と。傍人(ばうじん)慌てゝ彼をとゞめて曰く、君よ口を慎つつしめ、かの破れたる帽子の下に宇宙は包まれてありと。この口吻(こうふん)を借りて云へば、我が閑天地がむさくるしき四畳半の中にありと云ふも何の驚く所かあらむや。夫(そ)れ人、内に一の心あり、我が宇宙は畢竟ずるに我が心のみ。若(も)し我相場師とならば、喧囂(けんがう)雑踏極まりもなき牡蠣殻町(かきがらちやう)の塵挨の中にも、我が閑天地を見出し得ん。若し又暇をえて狐森(きつねもり)の煉瓦塀内に客とならば、その陰暗たる方三尺の監房にも心雲悠々たる閑天地を発見するに難からじ。
四畳半とし云へば、何(どう)やら茶人めいたる清淡雅致の一室を聯想すべけれど、我が居室は幸にして然(さ)る平凡なるものにあらず。と云へば又、何か大仕掛のカラクリにてもある様なれど、さにもあらず。有体に自白すれば、我が四畳半は、蓋(けだ)し天下の尤(もつと)も雑然、尤もむさくるしき室の一ならむ。而(しかし)て又、尤も暢気(のんき)、尤も幸福なるものゝ一ならむ。一間半の古格子附いたる窓は、雨雲色に燻(くす)ぶりたる紙障四枚を立てゝ、中の二枚に硝子嵌(は)まり、日夕庭の青葉の影を宿して曇らず。西向なれば、明々と旭日に照らさるゝ事なくて、我は安心して朝寝の楽を貪(むさぼ)り得る也。午前十時頃に起きて、朝餐と昼餐を同時に喰ふは趣味多き事なれど、この頃は大抵九時頃に起床を余儀なくせらる。枕の上にて新聞を読み、五六行読みては天井を眺め、又読みては又眺むる許(ばか)り面白き事はあらじ。かくて三十分位は夢の名残のあたゝかき臥床(ふしど)の中に過す也。我が四畳半を蓋(おほ)へる紙天井も亦(また)こよなく趣味深き珍らしきものなり。二坪と四分一の面積の中に、長方形の貼紙したる箇所新旧凡そ二十許り、裂けたるまゝにまだ紙貼らぬ所も二つ三つ、天井界の住人黒皮忠兵衛殿が一夜潜(ひそ)かに領内巡察の砌(みぎ)り、あやまつて大道に放尿したる違警罪の罪跡が、歴然として雲形に五六の斑点を印し、総体が濃淡の染分(そめわけ)に煤(すす)びわたりて、若しこれを枕上より睡眼朧(おぼろ)に仰ぎあぐれば、さながら世界減尽の日の大空も斯(か)くやと疑はる。
----------青空文庫より------------
明治38年(1905年)に書かれた文章が、これだけ難しいということは、100年後には、にゃん吉の文章も難解な文章となるのであろうか。この当時は、テレビやラジオといったものはなかった。言葉も文章も地方の色が豊かであっただろう。そんな時代だからこそ、文学を志す啄木は都会に憧れたのかもしれない。
黒皮忠兵衛殿は、にゃん吉の敵である。ドラえもんにとっては、切実な敵である。
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啄木新婚の家の続きを見よう。

奥に置かれているケースの中は、節子の琴だ。



啄木の両親と妹の住んだ部屋である。
啄木夫妻の結婚式もここで行われた。
しかし、新郎啄木は欠席していた。
8畳ほどの部屋だ。

おそらく啄木の一家が利用していたトイレである。
縁側からトイレに行けたようである。



明り取りのある雨戸だ。
雨戸、縁側、障子とある。
昔の日本の家らしい造りとなっている。

柱や敷居が歴史を感じさせてくれる。
開け放てば狭い空間も広く使えるところが日本の建物のいいところだ。

襖の向こうが、啄木夫妻の住んだ四畳半である。

8畳の部屋から、他の部屋を見る。
こちら側の襖の向こうは、啄木の一家の住む空間ではなかった。
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この新婚の家で過ごしている頃に啄木は岩手日報に随筆「閑天地」を発表している。
そして、途中の章より、この家での生活についても、書いている。
----------青空文庫より------------
(十) 我が四畳半 (一の上)
我が室は四畳半なりと聞かば、読者は、『閑天地』の余りに狭きに驚きやすらむ。昔者(むかし)はカーライル、弊衣を着、破帽をいたゞいて、一日馬車を竜動(ロンドン)街頭に駆(か)る。一市民見て声をあげて笑ふて曰く、かの乞丐(かたゐ)の如くして傲然(がうぜん)車上にあるは誰ぞ、と。傍人(ばうじん)慌てゝ彼をとゞめて曰く、君よ口を慎つつしめ、かの破れたる帽子の下に宇宙は包まれてありと。この口吻(こうふん)を借りて云へば、我が閑天地がむさくるしき四畳半の中にありと云ふも何の驚く所かあらむや。夫(そ)れ人、内に一の心あり、我が宇宙は畢竟ずるに我が心のみ。若(も)し我相場師とならば、喧囂(けんがう)雑踏極まりもなき牡蠣殻町(かきがらちやう)の塵挨の中にも、我が閑天地を見出し得ん。若し又暇をえて狐森(きつねもり)の煉瓦塀内に客とならば、その陰暗たる方三尺の監房にも心雲悠々たる閑天地を発見するに難からじ。
四畳半とし云へば、何(どう)やら茶人めいたる清淡雅致の一室を聯想すべけれど、我が居室は幸にして然(さ)る平凡なるものにあらず。と云へば又、何か大仕掛のカラクリにてもある様なれど、さにもあらず。有体に自白すれば、我が四畳半は、蓋(けだ)し天下の尤(もつと)も雑然、尤もむさくるしき室の一ならむ。而(しかし)て又、尤も暢気(のんき)、尤も幸福なるものゝ一ならむ。一間半の古格子附いたる窓は、雨雲色に燻(くす)ぶりたる紙障四枚を立てゝ、中の二枚に硝子嵌(は)まり、日夕庭の青葉の影を宿して曇らず。西向なれば、明々と旭日に照らさるゝ事なくて、我は安心して朝寝の楽を貪(むさぼ)り得る也。午前十時頃に起きて、朝餐と昼餐を同時に喰ふは趣味多き事なれど、この頃は大抵九時頃に起床を余儀なくせらる。枕の上にて新聞を読み、五六行読みては天井を眺め、又読みては又眺むる許(ばか)り面白き事はあらじ。かくて三十分位は夢の名残のあたゝかき臥床(ふしど)の中に過す也。我が四畳半を蓋(おほ)へる紙天井も亦(また)こよなく趣味深き珍らしきものなり。二坪と四分一の面積の中に、長方形の貼紙したる箇所新旧凡そ二十許り、裂けたるまゝにまだ紙貼らぬ所も二つ三つ、天井界の住人黒皮忠兵衛殿が一夜潜(ひそ)かに領内巡察の砌(みぎ)り、あやまつて大道に放尿したる違警罪の罪跡が、歴然として雲形に五六の斑点を印し、総体が濃淡の染分(そめわけ)に煤(すす)びわたりて、若しこれを枕上より睡眼朧(おぼろ)に仰ぎあぐれば、さながら世界減尽の日の大空も斯(か)くやと疑はる。
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明治38年(1905年)に書かれた文章が、これだけ難しいということは、100年後には、にゃん吉の文章も難解な文章となるのであろうか。この当時は、テレビやラジオといったものはなかった。言葉も文章も地方の色が豊かであっただろう。そんな時代だからこそ、文学を志す啄木は都会に憧れたのかもしれない。
黒皮忠兵衛殿は、にゃん吉の敵である。ドラえもんにとっては、切実な敵である。
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奥に置かれているケースの中は、節子の琴だ。



啄木の両親と妹の住んだ部屋である。
啄木夫妻の結婚式もここで行われた。
しかし、新郎啄木は欠席していた。
8畳ほどの部屋だ。

おそらく啄木の一家が利用していたトイレである。
縁側からトイレに行けたようである。



明り取りのある雨戸だ。
雨戸、縁側、障子とある。
昔の日本の家らしい造りとなっている。

柱や敷居が歴史を感じさせてくれる。
開け放てば狭い空間も広く使えるところが日本の建物のいいところだ。

襖の向こうが、啄木夫妻の住んだ四畳半である。

8畳の部屋から、他の部屋を見る。
こちら側の襖の向こうは、啄木の一家の住む空間ではなかった。
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啄木新婚の家 その6
石川啄木新婚の家である。
新婚の時から、啄木夫妻は、とても貧しい生活を送っていた。
しかし、この家に住んでいた当時の啄木は、随筆、閑天地で希望を持って生きている。
(二) 落人ごゝろ
このたびの我が旅故郷の閑古鳥聴きかんがためとも人に云ひぬ。塵ばみたる都の若葉忙せはしさ限りもなき陋巷ろうかうの住居に倦み果てゝとも云ひぬ。何はともあれ、素袷すあはせさむき暁の風に送られて鉄車一路の旅、云ひがたき思を載せたるまゝに、小雨ふる仙台につきたるは五月さつき廿日の黄昏時たそがれどきなりしが、たゞフラ/\と都門を出で来し身の、もとより心さへ身さへ定まらぬみちのくの放浪児さすらひご、古への宮城野の跡の、目もはるなる眺め仲々に捨てがたく、若葉衣の袖かろく心もすが/\なるに、たへがたき思ひする身も聊いささかはなぐさみて、さつき晴なる折々は広瀬川の畔ほとりにもさまよひ青野の涯はてに海を見る天主台、むかひ山などにものぼりぬ。尻上りのそこの語もきゝなれては、さまでに耳に悪しからず、晩翠ばんすゐ湖畔こはん花郷くわきやう臥城ぐわじやうなど、親しうする友達の情にほだされて、つひうか/\と十日許りを旅館に打ち過ごしたり。兎角とかうする間に、一人居の物淋しき暇々ひまひま、沈み行く心いかにか引きかへさめと、足弱机ひきよせて旅硯呑みさしの茶に磨すり、料紙の小半紙皺しわのべて、心ともなく筆を染めける小詩の二つ三つ、初夏の落人が詩心たゞ何となきそゞろぎのすさびなれば、心たかうして人に示すものにはあらねど、また来ん夏の思出に、忍草の若芽うらめしきまで見すぼらしきもかへりて興あらめと、五城楼下の記念、かき認めてこゝに『おちうどごゝろ』とは題しつ。
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「落人ごゝろ」と題して、啄木は東京から盛岡に帰る時の状況を語っている。
都落ちという言葉があるが、啄木にとっては、落ちたる気持ちだったのかもしれない。
複雑な思いを綴っているのである。
結婚式に出席しなかった言い訳ともとれなくもない。


奥のこの部屋は、啄木の父母と妹が住んでいた部屋だ。
三人で、この部屋に住んでいたのだ。決して広くはない。


この部屋も啄木の一家が住んでいた部屋ではない。
ちょっとした資料が展示されている。



明治23年の盛岡駅である。
今では、東北新幹線も通っている。
東京から、わずか2時間で盛岡に到着する。
この当時は、東京から盛岡といえば、長い長い旅であっただろう。




啄木についての解説である。
このように、花婿のいない結婚が執り行われた。
その後、啄木が帰ってきて、ここでの生活が始まるのであった。
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新婚の時から、啄木夫妻は、とても貧しい生活を送っていた。
しかし、この家に住んでいた当時の啄木は、随筆、閑天地で希望を持って生きている。
(二) 落人ごゝろ
このたびの我が旅故郷の閑古鳥聴きかんがためとも人に云ひぬ。塵ばみたる都の若葉忙せはしさ限りもなき陋巷ろうかうの住居に倦み果てゝとも云ひぬ。何はともあれ、素袷すあはせさむき暁の風に送られて鉄車一路の旅、云ひがたき思を載せたるまゝに、小雨ふる仙台につきたるは五月さつき廿日の黄昏時たそがれどきなりしが、たゞフラ/\と都門を出で来し身の、もとより心さへ身さへ定まらぬみちのくの放浪児さすらひご、古への宮城野の跡の、目もはるなる眺め仲々に捨てがたく、若葉衣の袖かろく心もすが/\なるに、たへがたき思ひする身も聊いささかはなぐさみて、さつき晴なる折々は広瀬川の畔ほとりにもさまよひ青野の涯はてに海を見る天主台、むかひ山などにものぼりぬ。尻上りのそこの語もきゝなれては、さまでに耳に悪しからず、晩翠ばんすゐ湖畔こはん花郷くわきやう臥城ぐわじやうなど、親しうする友達の情にほだされて、つひうか/\と十日許りを旅館に打ち過ごしたり。兎角とかうする間に、一人居の物淋しき暇々ひまひま、沈み行く心いかにか引きかへさめと、足弱机ひきよせて旅硯呑みさしの茶に磨すり、料紙の小半紙皺しわのべて、心ともなく筆を染めける小詩の二つ三つ、初夏の落人が詩心たゞ何となきそゞろぎのすさびなれば、心たかうして人に示すものにはあらねど、また来ん夏の思出に、忍草の若芽うらめしきまで見すぼらしきもかへりて興あらめと、五城楼下の記念、かき認めてこゝに『おちうどごゝろ』とは題しつ。
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「落人ごゝろ」と題して、啄木は東京から盛岡に帰る時の状況を語っている。
都落ちという言葉があるが、啄木にとっては、落ちたる気持ちだったのかもしれない。
複雑な思いを綴っているのである。
結婚式に出席しなかった言い訳ともとれなくもない。


奥のこの部屋は、啄木の父母と妹が住んでいた部屋だ。
三人で、この部屋に住んでいたのだ。決して広くはない。


この部屋も啄木の一家が住んでいた部屋ではない。
ちょっとした資料が展示されている。



明治23年の盛岡駅である。
今では、東北新幹線も通っている。
東京から、わずか2時間で盛岡に到着する。
この当時は、東京から盛岡といえば、長い長い旅であっただろう。




啄木についての解説である。
このように、花婿のいない結婚が執り行われた。
その後、啄木が帰ってきて、ここでの生活が始まるのであった。
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啄木新婚の家 その5
明治38年(1905年)、盛岡に帰って家族と生活を始めた啄木は、岩手日報に、「閑天地」という随筆を連載する。
「閑」とは、暇とか、落ち着いてのどかといった意味だ。
この随筆は、新婚の家にいた頃の作品だ。
(「閑天地」は実に閑天地なり。やてうの※雲とんうんに舞ひ、黄牛の草に眠るが如し。又春光野に流れて鳥初めて歌ひ、暮風清蔭に湧いて蜩ひぐらしの声を作なすが如し。未だ許さず、生きんが為めにのみ生き、行かんがためにのみ行くが如き人の、この悠々の世界に入るを。啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮たんぼ身世しんせいの怱忙そうばうに追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労つかれをおぼえぬ。乃すなはち茲ここに暫しばらく閑天地を求めて、心頭に雲を放ち、胸底に清風を蔵し、高眠安臥、興を暮天の鐘にさぐり、思を緑蔭の流光に托し、風鈴に和して吟じ、雨声を友として語り、この夏中百日を暢心ちやうしん静居の界に遊ばんとす。我がなつかしき故山の読者よ、卿等けいら若もし胸に一点の閑境地ありて、忙中なほ且つ花を花と見、鳥を鳥と聴くの心あらば、来つてこの埒らちもなき閑天地に我みちのくの流人と語るの風流をいなむ勿なかれ。記してこの漫録百題のはしがきとす。)
はしがきは、都から帰ってきた啄木が、この地で随筆を書くことについて語っている。漫録百題とは、上手く言っている。



玄関の近くの、婚約の頃の啄木と節子である。
この時の写真の節子は、大きく見えると思うのは、にゃん吉だけだろうか。




入り口を入って左の部屋である。
ここは、啄木一家が使っていた部屋ではなかった。
床の間に啄木の歌が掛けられている。
ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
一握の砂に収められている歌だ。
盛岡駅付近の石碑にも記されている。

霧ふかき好摩の原の停車場の朝の虫こそすずろなりけれ
これも、一握の砂に収められている歌だ。
好摩には、駅がある。現在は、JR東日本とIGRいわて銀河鉄道の駅である。
Wikipediaより---
好摩駅(こうまえき)は、岩手県盛岡市玉山区好摩字上山にある、IGRいわて銀河鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。両社の共同使用駅で、IGRいわて銀河鉄道の管轄駅である。
引用以上----
所在地は、岩手県盛岡市玉山区好摩字上山2-14である。
啄木の出生地は、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)であるので、まさしくこの歌は生まれた地を歌っているのであろう。
故あって故郷を離れた啄木であったが、故郷に向ける思いは、相当なものであったのだろう。
歌のはしばしに岩手県が見える気がする。
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「閑」とは、暇とか、落ち着いてのどかといった意味だ。
この随筆は、新婚の家にいた頃の作品だ。
(「閑天地」は実に閑天地なり。やてうの※雲とんうんに舞ひ、黄牛の草に眠るが如し。又春光野に流れて鳥初めて歌ひ、暮風清蔭に湧いて蜩ひぐらしの声を作なすが如し。未だ許さず、生きんが為めにのみ生き、行かんがためにのみ行くが如き人の、この悠々の世界に入るを。啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮たんぼ身世しんせいの怱忙そうばうに追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労つかれをおぼえぬ。乃すなはち茲ここに暫しばらく閑天地を求めて、心頭に雲を放ち、胸底に清風を蔵し、高眠安臥、興を暮天の鐘にさぐり、思を緑蔭の流光に托し、風鈴に和して吟じ、雨声を友として語り、この夏中百日を暢心ちやうしん静居の界に遊ばんとす。我がなつかしき故山の読者よ、卿等けいら若もし胸に一点の閑境地ありて、忙中なほ且つ花を花と見、鳥を鳥と聴くの心あらば、来つてこの埒らちもなき閑天地に我みちのくの流人と語るの風流をいなむ勿なかれ。記してこの漫録百題のはしがきとす。)
はしがきは、都から帰ってきた啄木が、この地で随筆を書くことについて語っている。漫録百題とは、上手く言っている。



玄関の近くの、婚約の頃の啄木と節子である。
この時の写真の節子は、大きく見えると思うのは、にゃん吉だけだろうか。




入り口を入って左の部屋である。
ここは、啄木一家が使っていた部屋ではなかった。
床の間に啄木の歌が掛けられている。
ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
一握の砂に収められている歌だ。
盛岡駅付近の石碑にも記されている。

霧ふかき好摩の原の停車場の朝の虫こそすずろなりけれ
これも、一握の砂に収められている歌だ。
好摩には、駅がある。現在は、JR東日本とIGRいわて銀河鉄道の駅である。
Wikipediaより---
好摩駅(こうまえき)は、岩手県盛岡市玉山区好摩字上山にある、IGRいわて銀河鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。両社の共同使用駅で、IGRいわて銀河鉄道の管轄駅である。
引用以上----
所在地は、岩手県盛岡市玉山区好摩字上山2-14である。
啄木の出生地は、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)であるので、まさしくこの歌は生まれた地を歌っているのであろう。
故あって故郷を離れた啄木であったが、故郷に向ける思いは、相当なものであったのだろう。
歌のはしばしに岩手県が見える気がする。
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啄木新婚の家 その4
石川啄木が、初めての詩集「あこがれ」を出版したのは、明治38年(1905年)5月3日のことである。
前年の11月頃より啄木は再び上京していた。
そして、5月12日に啄木と節子の結婚式が行われたのである。
その会場は、ここ、啄木新婚の家であった。
しかし、啄木はその結婚式に顔を出していない。
啄木が、この家に顔を出したのは、6月4日のことである。
もともとは、地元の寺で生まれた啄木であったが、父親の宗費未納が原因で、この年の3月に一家は寺を退去することとなったそうだ。
そして、5月の間借りの家での結婚式である。
啄木の心境はいかがなものであっただろう。
新郎不在の結婚式は、啄木の荒れた人生のひとつのエピソードのように語られることも多いが、それだけでもないような気がする。
6月4日から、この家で啄木夫妻と、両親、妹の生活が始まる。
一家の扶養は啄木が負うこととなる。
この時、啄木は、満19歳である。

入り口の前の雪は、左右に寄せられている。
啄木新婚の家の入り口である。
啄木新婚の家、いよいよ中に入ってみよう。

入るとすぐに左の壁には、啄木と節子の写真がある。
婚約時代の写真とのことだ。
啄木の写真として、よく見かける。
啄木が一人だけで写っている写真は、ほとんど残されていないのではないだろうか。

右手には、ちょっとしたものが展示されている。
右奥の部屋は、この施設の管理室となっているようだ。


啄木一家が間借りして居住していた部屋は、もっとも奥のあたりとなる。
このあたりは、他の人が住んでいた部屋である。


部屋の奥から、入り口を撮影である。
盛岡市に始めて電気が供給されたのは、明治38年(1905年)9月とのことだ。
盛岡市内77戸に初めて電灯をともした、旧宇津野発電所は岩手県内最古の発電所として保存されている。
啄木が、この家に住んだ当時は、まだ電気は通っていなかった。
上京したことのある啄木の目に、この空間はどのように写っていたのだろう。
夢のような明るい都会への憧れが見えていたのかもしれない。
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前年の11月頃より啄木は再び上京していた。
そして、5月12日に啄木と節子の結婚式が行われたのである。
その会場は、ここ、啄木新婚の家であった。
しかし、啄木はその結婚式に顔を出していない。
啄木が、この家に顔を出したのは、6月4日のことである。
もともとは、地元の寺で生まれた啄木であったが、父親の宗費未納が原因で、この年の3月に一家は寺を退去することとなったそうだ。
そして、5月の間借りの家での結婚式である。
啄木の心境はいかがなものであっただろう。
新郎不在の結婚式は、啄木の荒れた人生のひとつのエピソードのように語られることも多いが、それだけでもないような気がする。
6月4日から、この家で啄木夫妻と、両親、妹の生活が始まる。
一家の扶養は啄木が負うこととなる。
この時、啄木は、満19歳である。

入り口の前の雪は、左右に寄せられている。
啄木新婚の家の入り口である。
啄木新婚の家、いよいよ中に入ってみよう。

入るとすぐに左の壁には、啄木と節子の写真がある。
婚約時代の写真とのことだ。
啄木の写真として、よく見かける。
啄木が一人だけで写っている写真は、ほとんど残されていないのではないだろうか。

右手には、ちょっとしたものが展示されている。
右奥の部屋は、この施設の管理室となっているようだ。


啄木一家が間借りして居住していた部屋は、もっとも奥のあたりとなる。
このあたりは、他の人が住んでいた部屋である。


部屋の奥から、入り口を撮影である。
盛岡市に始めて電気が供給されたのは、明治38年(1905年)9月とのことだ。
盛岡市内77戸に初めて電灯をともした、旧宇津野発電所は岩手県内最古の発電所として保存されている。
啄木が、この家に住んだ当時は、まだ電気は通っていなかった。
上京したことのある啄木の目に、この空間はどのように写っていたのだろう。
夢のような明るい都会への憧れが見えていたのかもしれない。
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