ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相

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啄木新婚の家 その13



「一握の砂」で有名な石川啄木が新婚当時に住んだ家を紹介している。
そして、その時に書いていた随筆「閑天地」をみている。

----------青空文庫より--------------

(十六) 我が四畳半 (七)

 帰りには、函樽(かんそん)鉄道開通三日目と云ふに函館まで二等車に乗りて、列車ボーイの慇懃(いんぎん)なる手に取られ、刷毛(ブラツシ)に塵を払はれたる事もあり。二度目の津軽海峡は、波高く風すさび、白鴎絹を裂くが如く悲鳴して、行きし時には似ぬシケ模様に、船は一上一下さながら白楊の葉の風にひるがへるが如く、船室は忽ちに嘔吐(おうど)の声氛(ふんうん)として満ち、到底読書の興に安んじがたく、乃(すなはち)この古帽と共に甲板に出れば、細雨蕭条(せうでう)として横さまに痩頬(そうけふ)を打ち、心頭凛(りん)として景物皆悲壮、船首に立ち、帆綱を握つて身を支へ、眦(まなじり)を決して顧睥(こへい)するに、万畳の波丘(はきう)突如として無間(むげん)の淵谷(えんこく)と成り、船幽界(ゆうかい)に入らむとして又忽(たちまち)に雲濤(うんたう)に乗ぜんとす。右に日本海左に太平洋、一望劫風(ごふふう)の極まる所、満目たゞ之れ白浪の戦叫充ち、暗潮の矢の如きを見る。洪濛(こうもう)たる海気三寸の胸に入りて、一心見る/\四劫(しごふ)に溢れ、溢れて無限の戦の海を包まんとすれば、舷に砕くるの巨濤迸(ほとばし)つて急霰(きふさん)の如く我と古帽とに凛烈(りんれつ)の気を浴びせかけたる事もありき。三週の北遊終つて、秋を兼ぬるの別意涙に故山の樹葉を染め、更に瓢(へう)として金風一路南へ都門に入りぬ。古帽故郷に入つて喜びしや否や。弥生(やよひ)ヶ岡の一週、駿河台(するがだい)の三週、牛門の六閲月、我が一身の怱忙(そうばう)を極めたる如く、この古帽も亦(また)旦暮(たんぼ)街塵に馳駆(ちく)して、我病める日の外には殆んど一日も休らふ事能(あたは)ざりき。その多端なりし生活は今遽(にはか)に書き尽すべくもあらず。蓋(けだし)この古帽先生も亦、得意と失意との聯鎖の上に一歩一歩を進めて、内に満懐の不平と野心と、思郷病(ホームシツク)と、屈しがたき傲慢(がうまん)とを包んで、而(しかう)して外は人並に戯れもし、笑ひもしつゝ、或時は陋巷(ろうかう)月を踏んで惆悵(ちうちやう)として咨嗟しさし、或時は高楼酒を呼んで家国の老雄と縦談横議し、又時に詩室塵(ちり)を払ふて清興茶話、夜の明けなむとするをも忘れ、而して又、四時生活の条件と苦闘して、さうさう半余歳、塵臭漸やく脱し難からむとするに至つて、乃ち突如として帰去来を賦ふしぬ。飄々(へうへう)たる天地の一沙鴎(いちさおう)かくて双翼(さうよく)思(おも)ひを孕(は)らんで一路北に飛び、広瀬河畔(ひろせかはん)に吟行する十日、神威犯しがたき故苑の山河に見まみえんがために先づ宮城野の青嵐に埃痕(あいこん)を吹き掃はせて、かくて、嵐の海をたゞよひ来し破船(やれぶね)の見覚えある岸の陸に入るが如く、我見(がけん)の櫂を折り、虚栄の帆を下して、何はともあれ、心のほほゑみ秘めもあへず、静かにこの四畳半に入りて閑天地を求め得ぬ。我は古き畳の上に、忠勤なる古帽は煤(すすび)し壁の上に、各々(かくて)人生の怱忙(そうばう)を暫(しばし)のがれて、胸の波さへ穏やかなる安心の蓮台(れんだい)に休らふを得るに至れる也。我は今静かに彼を壁上に仰いで、実に廻燈籠の如き無限の感慨にうたれざるをえず。世の人若し来つて、我等は理想の妻として如何なるものか撰むべき、と問ふものあらば、我立所(たちどころ)に答へて云はむ、其標準たるべきもの此四畳半に二あり、一は乃ちこの古帽なり。彼は実に他の一の標準とすべきものゝ如く、誠心にして忠実、我と如何なる運命をも共にして毫(がう)も倦(う)まず撓(たゆま)ざるの熱愛を有すればなり、と。

----------青空文庫より--------------

さて、今回も間違いだらけの現代語訳に進む。
四畳半に吊るされた帽子を見ながら、啄木がここに住む直前の出来事を語っている。
1904年から1905年頃の話である。
今回も難しい表現が多い。間違いが多く出そうである。


(十六) 我が四畳半 (七)             現代語訳  天乃にゃん吉

 帰りは、函樽鉄道が開通して三日目であるということで、函館まで二等列車に乗って移動した。列車の車掌さんは私の帽子を丁寧に手にとって、ブラシで塵を払った。
帰りの津軽海峡は、波は高く風も強い。かもめのかん高い鳴き声が絹を裂く音のように響いていた。行きの時と違い船は小さな木の葉のように上下に大きく揺れるのだった。船室は船酔いで気分が悪くなった人の声で満ちてくる。私は、この古い帽子とともに甲板に出た。細い雨が風にのり横殴りに頬を打つ、景色は全て悲壮なものである。船首に行き、帆の綱を握って体を支える、何メートルもの高い波が突如、目の前に現れ船は波に飲み込まれるかと危惧するが次の瞬間には高い波の上にあるのだ。右は日本海、左は太平洋であるが、風は強く、どちらを見ても、ただ荒れくれる波が見えるのみだ。怒った波が船の舷に迫り来る、そのほとばしる波は、私とこの古い帽子に溢れんばかりの気を浴びせかける。
三週間の北海道旅行を終えて、秋の景色の故郷に立ち寄ることもなく、一路南へと向かい東京に到着した。この帽子にとっては東京が故郷である。故郷に帰って喜んでいるだろうか。到着後は、弥生ヶ岡、駿河台、牛門などほうぼうの出版社を巡り、これまでの自分の人生でも最も忙しい時間を過ごした。この帽子もまた同じく忙しい時間をともにしたのだ。体調が悪い日以外は、休むこともできない日々に忙殺された。この時の詳細は、すぐに書ききることはできない。この古い帽子も、私と一緒に上手くいく時も、上手くいかない時も、一歩一歩あゆんできた。内心では、不平もあり、野心もあり、故郷を懐かしむこともあった。その思いと屈しがたい傲慢な心も包み隠して、外では他の人にも合わせて遊んだり、笑ったりした。いろいろなできごとがあったのだ。そして、半年、突如として北に帰ることにした。立ち寄った仙台で十日間、詩を詠んだ。そして、とうとう覚悟を決めて、静かにこの四畳半に入り、閑天地を求め得た。私は古い畳の上、忠勤な帽子は煤けた壁の上で、気ぜわしい日々を、しばし逃れようとしている。今、壁にかかる帽子を見れば、私の歩みを思い出し、感慨にふける。もし、人に理想の妻について聞かれたら、私は答えるだろう。「この四畳半に、その理想の妻と言えるものは2つある、そのうちのひとつは、この忠勤な帽子である。」と。

【あとがき】                         天乃にゃん吉
啄木は、北海道旅行から、故郷に立ち寄ることもなく東京に向かい、処女詩集「あこがれ」を出版した。ちょうどここに書かれている東京での6ヶ月の間のできごとだ。短歌では身をたてるほどの評価は得られなかった啄木は詩をかきはじめ、あちらことらと奔走して、初めての出版へとこぎつけたのである。そして、岩手に帰り、この四畳半に落ち着いたということだ。初回の上京の時に神田で買った帽子は、この時に至るまで、ずっと啄木と離れないでいる。



さて、啄木の我が四畳半も、終盤となった。
啄木新婚の家の写真も、終盤となってきたのである。

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玄関の屋根というか、天井なのだ。
天井はなく、屋根なのだが、屋内なので天井でいいのだろうか。



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玄関の欄間と火鉢である。
このような風流な家は、なかなか見かけられなくなってきた。
啄木は、寺の生まれで幼少の頃は、神童と呼ばれ、特に何不自由なく育ったようだ。
中学時代に、将校への夢が体格、病弱な体により挫折して以降、成績の急降下、カンニング発覚など平坦でない青年期を過ごしている。そして、父親の宗費未納で一家は寺を追い出され、啄木の帰るところは渋民の寺ではなくなっていた。




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啄木の一家が住んでいた頃には、この家には電気は通っていなかった。
しかし、すぐ後で電気が通ったと思われる。
渋谷村から中学進学で出てきた盛岡市内は啄木にとっては新しいものに目を奪われる思いだっただろう。
最後は、東京でその生涯を終えた石川啄木である。




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啄木新婚の家 その12



石川啄木が新婚時代をすごした、啄木新婚の家である。
所在地は、岩手県盛岡市中央通3丁目17−18である。
現在の岩手県盛岡市で生まれた石川啄木だが、盛岡市に残る啄木の遺跡は、ここしかないようだ。
ここで、啄木は随筆「閑天地」を書き、岩手日報で発表していた。
その中の「我が四畳半」は、この啄木新婚の家をあらわしている。

「閑天地」の中の「我が四畳半」を読んでみよう。

----------青空文庫より-----------

(十五) 我が四畳半 (六)

 昨年の秋となりぬ。九月の末、遽(にはか)に思ひ立ちて、吟心愁を蔵して一人北海に遊びぬ。途(みち)すがら、下河原沼(しもかはらぬま)の暁風、野辺地(のへぢ)の浦の汐風、浜茄子(はまなす)の香など、皆この古帽に沁みて名残をとゞめぬ。陸奥丸(むつまる)甲板上の五時間半、青森より函館まで、秋濤(しうたう)おだやかなりし津軽海峡を渡りて、我も帽子も初めて大海を吹きまはる千古の劫風(ごふふう)を胸の奥まで吸ひぬ。あくる日、函館より乗りたる独逸(ドイツ)船ヘレーン号の二十時間、小樽の埠頭までの航路こそ思出づるさへ興多かり。この帽子と羊羹(やうかん)色になりたる紋付羽織とのために、同船の一商人をして我を天理教の伝道師と見誤らしめき。又、むさくるしき三等船室の中に、漲ぎりわたる一種名状すべからざる異様の臭気を吸ふて、遂に眩暈(げんうん)を感じ、逃ぐるが如く甲板に駈け上りたるも我とこの帽子也。波は神威崎(かむゐさき)の沖合あたりもいと静かなりき。上甲板の欄干に凭(よ)りて秋天一碧(しうてんいつぺき)のあなた、遠く日本海の西の波に沈まむとする落日を眺めつゝ、悵然(ちやうぜん)たる愁懐を蓬々(ほうほう)一陣の天風に吹かせ、飄々何所似(へうへうなんのに)たるところ、天地一沙鴎(てんちいちさおう)と杜甫が句を誦し且つ誦したる時、その船の機関長とか云ふ赭髯緑眼(しやぜんりよくがん)の男来つて、キヤン、ユウ、スペーク、エングリツシ?、我答へて曰く、然り、然れども悪英語(キングスエングリツシ)のみ、と。これより我と其独人との間に破格なる会話は初められぬ。談漸やく進み、我問ふて曰く、この船の船員は皆急はしげに働きつゝあるに、君一人は何故しかく閑(ひま)ある如く見ゆるや、と。彼得意気に鼻をうごめかして答ふらく、余はこの船の機関長なり、船長の次なり、と。我は潜(ひそ)かに冷笑一番を禁ぜざりき。あゝ名誉ある一商船の機関長閣下よ。彼、君は学生なりや、若(も)しくは如何なる職業に従事するや。我、我は詩人なり、と云ひて笑ひぬ。更に語をついで云ふ、日本人は凡(すべ)て皆詩人ならざるなし、日本の国土が既(すで)に最美の詩篇たるなりと。彼異様なる感情をその顔面に動かしつゝ、君はゲーテの名を知るや。我、我は独逸話を知らざれど、英訳によりて彼の作物の幾分は朧(おぼろげ)乍(なが)ら味はひたる事あり。彼更に曰く、君はハイネの作を読めりや、欧羅巴(ヨーロツパ)の年若き男女にしてハイネの恋の詩を知らざるはなし、彼等は単に我が祖国の光栄たるのみならず、また実に世界の詩人なり、と。我、悪謔一番して曰く、然(し)かり、彼等は少なくとも今の独逸人よりは偉大なり。彼は苦笑しぬ。我は哄笑(こうせう)しぬ。この時、我が帽子も亦我と共にこの名誉なる一商船の機関長閣下をも憚(はばから)ず、倣然(がうぜん)として笑へるが如くなりき。その夜、マストにかゝる亥中(ゐなか)の月の、淋しくも凍れるが如き光にも我と共に浴びぬ。あくる日、小樽港に入りて浮艇(はしけ)に乗り移れる時、へレーン号と其機関長とに別意を告げて打ふりたるもこの帽子なり。滞樽(たいそん)二週の間、或時は満天煙の如く潮曇りして、重々しき風と共に窓硝子うつ落葉の二片三片もうら悲しく、旅心漫に寂寥を極めて孤座紙(こざかみ)に対するに堪へず、杖を携へて愁歩蹌踉(さうらう)、岸うつ秋濤の響きに胸かき乱され、たどり/\て防波堤上の冷たき石に伏し、千古一色の暮風、濛々(もうもう)として波と共に迫る所、荒ぶる波に漂ひてこなたに寄せくる一隻の漁船の、舷歌はなはだ悲涼、
忍路(おしよろ)高島およびもないが
せめて歌棄磯谷(うたすついそや)まで。
 と、寂(さ)びたる櫓(ろ)の音に和し、陰惨たる海風に散じ、ちゆうちゆうたる憂心を誘ふて犇々(ひしひし)として我が頭上に圧し来るや、郷情欝(うつ)として迢遞悲腸(てうていひちやう)ために寸断せらるゝを覚えて、惨々たる血涙(せき)もあへず、あはれ暮風一曲の古調に、心絃挽歌(しんげんばんか)寥々(れうれう)として起るが如く、一身ために愁殺され了をはんぬるの時、堤上に石と伏して幾度か狂瀾の飛沫を浴びたるも、我と比古帽なりき。

----------青空文庫より-----------

我が四畳半、六となっているが、この章は前回の続きのようで帽子も登場している。今回の話は、1904年9月から10月にかけて啄木が青森、小樽あたりを旅行した時の話である。青森から函館は船を使って移動であった。

啄木新婚の家を飛び出した感のある、我が四畳半だが、ここで書かれた随筆である。
それでは、間違いだらけの現代語訳である。


(十五) 我が四畳半 (六)               現代語訳 天乃にゃん吉

 昨年の秋、9月の末頃、にわかに思い立って詩を詠みたいと思い北海道に出かけた。道中では、下河原沼の風や、野辺地の浦の潮風、ハマナスの香りなどが、この古い帽子に染み込んでいる。青森から函館に渡る5時間半の航路、陸奥丸の甲板の上で私も帽子も大海の風を胸の奥まで吸い込んだ。津軽海峡の秋の波は穏やかだった。翌日、函館から小樽に向うためにドイツ船へレーン号に乗った。この20時間の航路は思い出しても、おもしろい。この帽子をかぶり羊羹の色になった紋付の羽織を着ている私を見て、船に同乗していた、ある商人は私を天理教を伝道する人と思ったようだ。三等船室にいたが、あまりにむさ苦しい一種異様な匂いに耐え切れず、めまいを起こしそうになったため三等客室から逃げ出し、甲板に駆け上がった。そのときも、この帽子は一緒だった。波は神威崎の沖合いあたりも静かだった。甲板の欄干にもたれかかり、秋空のかなた、日本海に沈む夕日を眺めながら、杜甫の句を繰り返し、口に出していると、その船の機関長とかいう目つきの悪い男がやってきて、「キヤン、ユウ、スペーク、エングリツシ?(英語は話せるか?)」と聞かれた。私は答えた。
話すことはできるが、堪能ではない。こうして、その男との会話が始まった。話はなんとか進んでいる。私は彼に質問した。
「この船の船員さんは、みんな忙しそうに働いているのに、どうしてあなたは、そんなに暇そうにしていられるのか?」彼は得意そうに答えた。「私は、この船の機関長だ、つまり船長の次に偉いのだ。」私はひそかに苦笑した。ああ名誉ある一商船の機関長様。彼がさらに聞いてきた。「君は学生か?それとも何か仕事をしているのか?」「私は詩人だ。」そう答えて笑った。「日本人はみんな詩人だ、日本の国土が最高の詩の舞台となっている。」彼は感動したようだ。「君はゲーテを知っているか?」「私はドイツ語はわからないが、英訳されたゲーテの作品を読んだことはある。」彼はさらに言う。「君にハイネの詩を勧める、ヨーロッパの人はみんなハイネの恋の詩を知っている。ゲーテやハイネはドイツで有名なだけではない、世界の詩人だ。」私も言った。「そうですね、彼らは少なくとも今のドイツの人よりは偉大です。」彼は苦笑し、私は大笑いした。私の頭上にあった帽子も私とともに、この名誉ある一商船の機関長様をはばかることもなく、大笑いしているようであった。その夜、マストにかかる、はつか月の、寂しく凍りそうな光を、帽子は私と一緒に浴びていた。翌日、船が小樽港に入り上陸のために浮艇に乗り移った時に、へレーン号と、某機関長にさよならと打ち振ったのも、この帽子だ。小樽に滞在した二週間、ある日は、空が全て煙のように曇り、重々しい風と飛ばされた落ち葉が窓をたたく様が悲しく旅人の私の心は寂しさの極みとなった。ひとり机に向っていることに耐えられなくなり、杖を持ち、うつろにさまよった。岸壁の秋の波の音は私の心をかき乱す。歩き続けた末に防波堤の冷たい石に伏して、波間に見える1艘の小さな船を見た。はなはだ悲しく寂しい歌である。
忍路(おしよろ)高島およびもないが
せめて歌棄磯谷(うたすついそや)まで。
この歌が船の櫓の音と一緒に聞こえてくるようだ。海の風は寂しさを誘い、その思いはどんどん強くなる。心を乱す世界の中で志も曲げられそうになり、歌の古い調子がさらに悪い運命に誘い込むようだ。そんな悩める時間にも私とともに防波堤の石に伏して、何度か狂乱の波をかぶったのは、この帽子だ。


【あとがき】              天乃にゃん吉
この頃の啄木の文章には段落というものがない。しかも句読点の「。」が極めて少ない。「、」を使ってどんどん文章を続けて書いていく。啄木のリズムなのかもしれない。文章も先を急いでいるように感じる。ちなみに、「忍路(おしよろ)高島およびもないが せめて歌棄磯谷(うたすついそや)まで。」これは北海道に伝わっていた歌のようだ。越えてはならない海を越える恋の歌として歌われていたようだが、実は商人の争いを歌ったものだとの説もある。多感な時期に聞くには、恋の歌のほうがいいであろう。悲しい恋の歌なのだ。現代語訳のこの歌以降は、全く自身がない。どのように現代語にすればいいか、さっぱりわからない。それ以前に意味を理解できていない。寂しさに打ちひしがれている様を回りくどく説明したものだろうと、勝手に解釈している。




さて、啄木新婚の家の紹介である。
我が四畳半を読んでから掲載していると遅々として更新が進まない。
我が四畳半も、あと2章ぐらいだったと思う。

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啄木新婚の家0122

ここは、四畳半の隣にある、玄関である。
この家にとっては裏口のようなものかもしれないが、玄関なのだ。
そして、この玄関を啄木は玄関として使っていた。

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玄関の床である。啄木がいた当時から、このような床になっていたかどうかは、わからない。
土間だったかもしれない。

啄木新婚の家0124

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玄関の部屋である。
二畳ほどの部屋だが、ここも在住の当時は物が置かれていたことだろう。
五人で住むには、工夫をしないと狭い空間なのだ。しかも机が3つもあったらしい。

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玄関から、四畳半を見ている。
障子の向こうは、四畳半である。





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啄木新婚の家 その11



石川啄木の新婚の家を訪問したので、その写真を公開している。
啄木が、この家に住んだ頃に書いた随筆『閑天地』も掲載しながら、無謀にも現代語訳も掲載している。
自分だけで読むには、フィーリングのみで読むのだが、それを文章にして掲載しようとすると、少しは調べようという気にもなる。そうしていると、また知らなかったことを発見できることもある。間違っている箇所も多数あるだろうが、啄木が本当に言いたかったことは、啄木にしかわからない。読み物というのは、読み手にまかされる部分もある。楽しめるのなら、それでいいかとも思う。我が四畳半の続きである。


---------------青空文庫より-------------
(十四) 我が四畳半 (五)

 我が絳泥(あかどろ)色の帽子も亦、この壁上にあり。この帽子の我が頭にいたゞかるゝに至りてより満二年四ヶ月の歴史は、曠量(くわうりやう)我の如くして猶且つ何人と雖(いへ)ども侮辱するを許さゞる所。試みに思へ、世界何処にか最初より古物たるものあらむ。之れも初めて神田小川町の、とある洋物店より我が撰目に入りて購ひ取られたる時は、目も鮮やかなるコゲ茶色の仲々(なかなか)に目ざましき一物なりき。我は時としてこの帽子或は我が運命を司(つかさ)どるにあらずやと思ふ事あり。何となれば、一昨年早春、病骨を運んで故山に隠れし時を始めとして、爾来この帽子の行く所、必ず随所に我も亦寒木の如き痩躯を運び行けば也。嘗(かつ)て美しかりしコゲ茶色は、今何故に斯くも黯然(あんぜん)たる絳泥あかどろ色に変色したりや。其理由は足掛三年間の我が運命の多端なりし如く、又実に多端なり。先づ初めに東都の街塵に染みぬ。次は上野駅より好摩駅まで沿道三百六十余哩マイルの間の空気に染みぬ。或は当時同車したりし熊の如き髯武者(ひげむしや)、巡査、田舎婆、芸者らしき女、などの交々吐き出したる炭酸瓦斯(たんさんガス)も猶幾分か残り居るべし。次は岩手山下の二十ヶ月なり。渋民の村の平和なる大気最も多く沁みたるべし。そこの禅房の一室なりける我が書斎の茶煙や煙草の煙に燻(くす)ぶりたるも少なからじ。詩堂とお医者様の玄関及び郷校のオルガンある室との間を最も繁く往来したりければ、薬の香り、楽声の余韻なども沁みこみてありと知るべし。時々は盛岡の朝風暮色をも吸はせぬ。雨降れる行春の夜、誰やら黒髪長き人と蛇の目傘さして公園を通り、満地泥ににじめる落花を踏むを心惜しと思ひし事もありしが、その時の雨の匂ひなど猶残りてあらば、世にも床しき想出の種なりかし。禅房の一室夜いたくも更け渡りて孤燈沈々たる時、我ひとり冷えたる苦茗(くめい)を啜(すす)つて、苦吟又苦吟、額に汗を覚ゆる惨憺の有様を、最も同情ある顔付して柱の上より見守りたるもこの帽子なり。鶴飼橋畔(つるかひけうはん)の夜景に低廻して、『わが詩の驕(おごり)のまのあたりに、象徴かたどり成りぬる栄はえのさまか』と中天の明月に浩歌(かうか)したりし時、我と共に名残なくその月色を吸ひたるもこれ也。或時は村内の愛弟愛妹幾人となく引きつれて、夏の半ばの風和き夜な/\、舟綱橋(ふなたばし)あたりに螢狩りしては、団扇(うちは)の代理つとめさせられて数知れぬ流螢(りうけい)を生擒(せいきん)したる功労もこれにあり。野路を辿(たど)りて、我れ草花の香を嗅(か)げば、この帽子も亦(また)、共にその香に酔ひたる日もありき。価安かりけれど、よく風流を解したる奴なり。彼の忠勤は夜を徹するも仲々かき尽し難き程ある中に、茲(ここ)に特筆すべきは、我由来傘を嫌ふ事、立小便の癖ある人が巡査を嫌ふよりも甚しく、強からぬ雨の日には家人の目を盗んで傘なしに外出し、若し又途中より降り出らるゝ事あるも、心小さき人々の如く尻端折(しりはしを)りて下駄を脱ぎ、鳥羽絵(とばゑ)にある様の可笑しき姿して駈け出すなどの事、生れてより未だ一度もあらねば、この一ヶの帽子我が脳天を保護すれば足るだけの帽子ながら、常に雨に打たれて傘の代用までも勤めたる事あり。また一年の前なり、その村の祝勝提灯行列の夜、幾百の村民が手に手に紅燈を打ふりて、さながら大火竜の練り行くが如く、静けき村路に開闢(かいびやく)以来の大声をあげて歓呼しつゝ家国の光栄を祝したる事あり。黄雲の如き土塵をものともせず、我も亦また躍然として人々と共に一群の先鋒に銅羅声(どらごゑ)をあげたりき、これこの古帽先生が其満腔の愛国心を発表しえたる唯一の機会なりし也。
---------------青空文庫より-------------

さて、間違いだらけの現代語訳だ。
今日も、がんばろう。

(十四) 我が四畳半 (五)              現代語訳 天乃にゃん吉

 私の赤泥色をした帽子もまた、この壁にかけられている。この帽子をかぶりはじめて満2年4ヶ月になる。これだけの年月が経ってくると、この帽子は私自身のようなものだ。誰かが、この帽子の今の様子を侮辱したら私は許せない。考えてもみたまえ、世界中のどこを探しても新品の時から古いものなどはない。この帽子も、私の目を引いて神田小川町の、ある洋物店で私に買い取られた時は、目を奪うほどの鮮やかな、こげ茶色で、なかなか洒落た帽子だったのだ。この帽子は私の運命を支配するのではないかと思うことがある。その理由はといえば、一昨年の早春に、病になり故郷の山に帰ったときを初めとして、それ以来、この帽子と私は、必ず同じところに行っているからだ。買った時の鮮やかなこげ茶色が、今ではなぜこのような赤泥色になってしまったのだろう。その理由は、約3年間の私の波乱の人生と同じように、波乱を経験したからだ。まず最初に、東京の塵や埃に染まった。次には、上野駅から好摩駅までの約700kmの空気に染まった。あるいは、汽車に一緒に乗っていた熊のような髭ぼうぼうの男や、警察官、田舎のおばあさん、芸者のような女性などの吐き出す空気にも、幾分染まっているかもしれない。次は、岩手山のふもとで過ごした20ヶ月だ。渋民の村の平和な空気にもっとも多く染まっている。そこの禅房の一部屋である私の書斎のお茶の湯気やタバコの煙にも染まっていることであろう。家から病院まで、そして母校のあたりまでも、よく歩いたので、この帽子には薬の匂いと、母校の生徒たちの歌声の余韻までもがしみついているのだ。時々は散歩に出かけ盛岡の朝の風や、夕暮れの色もしみこんでいる。小雨ふる春の夜に、美しい黒髪の人と蛇の目傘をさして公園を歩いた時には、雨に地上に落とされた花びらを不憫に思ったものだった、その夜の雨の匂いも、この帽子に残っているなら、秘密の甘い思い出なのだ。私の禅房での出来事だ、夜も更けて小さな明かりがひとつだけ部屋を照らしている時に、私が冷えきった出がらしの茶をすすりながら、詩が浮かばないことに四苦八苦して汗をかいている様子を、最も同情した顔つきで柱の上から見ていたのも、この帽子だ。鶴飼橋付近の夜景を楽しみながら、『私の詩のおごりを象徴するのは、この景色か』と、中秋の名月に歌った時に、私と一緒に惜しむこともなく、その月の色を吸い込んだのも、この帽子なのである。ある時は、村の人々の大勢と一緒に、夏の半ばの風が和む夜に、舟綱橋あたりで蛍を獲りに行った、この帽子はうちわの変わりにもなった、そして蛍を獲る役にもたったのだ。野の道を歩きながら、草花の香りを嗅いでいる時には、この帽子も同じように香りを嗅いでいた。そんなに値段が高い帽子ではなかったが、風流を知っている帽子だ。この帽子は、ここでは書ききれないほどに、よく働いてくれたが、ここでさらに書いておきたい。犯罪者が警察を嫌うことより、私は傘がきらいだ。小雨の時には、家族から見られないようにして傘を持たずに外出する。もし途中で雨が強くなったとしても、昔の風刺画のこっけいな人のように、裾を上げ靴を脱ぎ急いで駆け出すようなことはしない。この帽子が私の頭を雨から守ってくれる。いつも雨に打たれて傘の代用まで努める帽子なのである。一年前に、村で祝勝会が行われた。その夜の提灯行列では何百人もの村人が提灯を持って歩いた。その様子は大きな燃える竜のようであった。普段は静かな村であるが、村ができて以来、初めての大きな祭りとなった。村人は大声で家や国の繁栄を祝った。その行列先頭で私も大きな声を張り上げて参加した、この時は、この古い帽子が、彼の愛国心を世間に向けて発表できた唯一の機会となった。

【あとがき】                         天乃にゃん吉

啄木は、この章で自分とともに長く過ごしてきた帽子を擬人化して表現している。啄木自身の様子を第三者的な見方で表現するには、常に自分と一緒に、あちらこちらと移動しているこの帽子が最も適当であり、愛情をもった表現ができたのであろう。啄木が始めて上京した時に神田小川町の洋品店で洒落た帽子買った啄木は、いつもその帽子を愛用していたようだ。その後、啄木が病気となり就職も決まらないことから帽子は啄木と一緒に岩手県の渋民村に移動した。この頃は好摩駅が最寄の駅であったようだ。そして、そこでの生活でも帽子は啄木とともにいた。病院へ行く時も散歩に出かけるときも、ずっと一緒であったようだ。そして家の中では高い所から啄木を眺めていた。話は渋民での生活で終わっているが、その後、啄木は再度、上京している。そして、盛岡に帰って結婚してから、この四畳半に住むことになったが、そこでも、この帽子は啄木と一緒にいるのである。






さて、啄木新婚の家である。

啄木新婚の家0114

啄木新婚の家0115

啄木新婚の家0116

啄木の四畳半には壁が少ない。
ほとんどが、障子か襖である。
壁が少ないので、狭いスペースに服や帽子が吊るされることになったのかもしれない。

啄木新婚の家0117

啄木一家が使っていた玄関と、続きの部屋だ。

啄木新婚の家0118

啄木新婚の家0119

玄関は、開くことはできなかった。
外から見たところでは、扉の前にも雪が残っていた。




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啄木新婚の家 その10



石川啄木の閑天地を読みながら、啄木新婚の家を紹介している。
古文、漢文は苦手である。
間違いは、笑って許してくだされ。
登場人物が古すぎる人だったり、マイナーすぎる人だったりするのだが、これは現代の人に置き換えるというわけにもいかまい。調べても、わからない人が登場した時は、けっこう困っている。



-------青空文庫より------

(十三) 我が四畳半 (四)

 壁は蒼茫(さうばう)たる暮靄(ぼあゐ)の色をなし、幾十の年光に侵蝕(しんしよく)せられて、所々危うげなる所なきにあらず。我常に之に対して思ふ。今の学者何か新発見をして博士号を得んと汲々(きふきふ)たれども、発見とはさまでむづかしき事にあらず。たとへば顕微鏡を持ち来つてこの壁を仔細に検視せよ、恐らくは人を代ふるも数ふる能はざる程の無数のバチルスありて、刻々生々滅々しつゝあらむ。これらのうちには未だ人の知らざる種類も亦なしと云ふ事あらざらむ。バチルスを発見すると否とはさまで吾人の人生に関与する所なしと雖(いへ)ども、要するに、問題と秘密とは、図書館の中にあらず、浩蕩(かうたう)の天際(てんさい)に存せずして、却(かへ)つて吾人の日常生活の間に畳々として現在せり。我嘗(かつ)て、夕ぐれ野路を辿(たど)りて黄に咲ける小花を摘み、涙せきあへざりし感懐を叙したるの詩あり。結句に曰く、

あゝこの花の心を解くあらば
我が心また解きうべし。
心の花しひらきなば
また開くべし見えざる園の門(かど)。

 と、蓋(けだ)しこれ也。問題と秘密とは、微々たる一茎の草花にも宿り、瑣々(ささ)たる一小事にも籠る。然(しか)るを何者の偏視眼者流ぞ、徒(いたづら)に学風を煩瑣(はんさ)にし、究理と云ひ、探求と称して、貴とき生命を空しく無用の努力に費やし去る。斯(かく)して彼等の齎(もたら)し来る所謂新学説とは何ぞ、曰く無意義、然らずんば無用、たゞこれのみ。あゝたゞ之れのみ。我等は我等の生涯をして生ける論理学(ロヂツク)たらしめむ事を願ふ能はず。又冷灰枯木(れいくわいこぼく)の如き倫理学的生活、法律学的生活を渇仰(かつぎやう)する能はず。我は実に不幸にして今の学者先生を我が眼中に置くの光栄を有せざる也。読者よ許せ、我が面壁独語(めんぺきどくご)ははしなくも余岐にわたりぬ。然れどもこれこそは実に我が四畳半の活光景たる也。ひと度我を訪はむものは、先づ斯くの如き冗語を忍びきくの覚悟を有せざるべからず。
 この惨憺たる壁際には、幾著(いくちやく)の衣類、袴(はかま)など、黙然として力なく吊り下れり。其状たとへば、廃寺の残壁の下、怨みを負へる亡霊の其処此処とさまよふなる黄昏(たそがれ)の断末魔の如し。若し沙翁(さをう)の『ハムレツト』を読んで、其第一幕のうち、ハムレツトが父王の亡霊と語るあたりの、戦慄を禁ぜざる光景を真に味はむと欲する者あらば、来つて我が四畳半に入れ。蓋(けだ)しこの壁際の恐るべき有様に対しつゝそを読まば、ロンドンの宮廷劇場にアービングが演ずる神技を見んよりも、一層其凄寥(せいれう)の趣を知るに近からむなり。袖口の擦(す)りきれたる羽織あり。裾(すそ)より幾条の糸条を垂れたる袴(はかま)あり。縫はれて五年になん/\とする単衣あり。これらは、よしや真の亡霊に似ずとするも、誰かその少なくとも衣服の亡霊たるの事実を否定し得んや。然れども、時に之等に伍して、紅絹裏(もみうら)などのついたる晴やかの女着の衣裳の懸けらるゝ事なきにあらず。恰(あたか)も現世(このよ)の人の路を踏み誤つて陰府に迷ひ入れるが如し。かゝる時の亡霊共の迷惑思ひやらる。何となれば、彼等も亦我が如く、自己の世界に他人と肩を並ぶるを嫌ふ事、狂人(きちがひ)の親が狂人の話を嫌ふよりも甚しければ也。

-------青空文庫より------

さて、恒例の「間違いだらけの現代語訳」である。
啄木の文章は、随筆とはいえ五七のリズムや韻を踏んでいる箇所があるようだ。
現代の言葉に直すだけでは、啄木の文章の魅力は全く伝わらないだろう。
難しいものである。




(十三) 我が四畳半 (四)              現代語訳 天乃にゃん吉

壁は暮れ色の青のようなカビ色が広がる、築後何十年も経過しているためところどころ、壁は侵蝕されて危うく見える所もある。私は、この壁を見るたびに思うのだ。今の学者たちは、新発見をして博士号をもらおうと、あくせくしているが、発見などというものは、そんなに難しいものではないのだ。どんなに簡単なことかといえば、例えば顕微鏡を持って、我が家に来て、この壁を細かく見てみろと言いたい。おそらく、何人もが代わる代わる検査しても、全てを数えることはできないほどの菌があるだろう、これは時の経過とともに、無数に生まれては消えていっている。これだけの菌の中には、いまだに発見されていない菌もあるだろう。しかし、新しい菌を発見するか、発見しないかということで一般の人の生活には全く関係のないことだ。そうである、解決すべき問題と隠された真実といったものは、図書館の中の本に書かれているものではない、広々とした空のはるか彼方にあるものでもない、むしろ日常の生活や、生活空間の中に幾重にも重なり合って存在しているものなのである。私は、かつて夕暮れの野道を歩いていて、黄色い小さな花を摘んだ、そして涙が止まらないほどの感慨を詩にした。結びの句は以下のとおりだ。

あゝこの花の心を解くあらば
我が心また解きうべし。
心の花しひらきなば
また開くべし見えざる園の門(かど)。

(この花の心の中がわかるのであれば
私の心のもわかるであろう。
心の奥まで開いたのであれば
さらに奥の見えない部分も感じとるのだ。)   ........ (この部分、全く訳せない)

全ては、この詩のとおりなのである。謎と真実は小さな草木にもあり、たわいない日常の中にも潜んでいるものなのだ。そういうものに対しても、学者の先生たちは、自分に偏った見方をして、物事を複雑怪奇なものとするのだ。究理とか探求と言って貴重な時間をむなしく無駄に費やしている。学者先生の唱える新しい学説とは、なんであろう。意義のないものなのだ。それなら必要のないものであると、私は言いたい。そんなものだ。本当にそんなものなのだ。新しい学説や発見は、私達の生活や生涯に役立つものであって欲しい、しかし、その願いが叶うことはない。また、消えて冷えた灰や枯れた木のように倫理的な生き方や、法や道徳を遵守した生き方にあこがれ、そんな生き方をしようとしても、それを100%実現させることは不可能なことなのである。私は、これまで、そんな本物の真理を追究する学者先生を見たことがない。読者の方々、私の自分勝手な考えをゆるし給え。私の住む四畳半にとっては、学者先生の新発見より、壁に巣くうカビをなんとかすることのほうが切実な問題なのだ。もし、私の家を訪問したなら、私の壮大な説を聞かされると覚悟しておいてほしい。
 この、さんざんな部屋の壁際には、何着もの服や袴が吊るされている。何着もの衣類は力なくただ、吊るされているだけなのだ。その様子といえば、荒れた廃寺の中をうろうろと、うごめく亡霊どもの断末魔といっていいほどのものだ。もし、シェークスピアの「ハムレット」の、第一幕の劇中、ハムレットが死んだ父王と語る、おどろおそろしい様を満喫したいのであれば我が家に来て、四畳半の間の壁を見ながら、その章を読めばいい。この空間は、どんな名優がどんな立派な劇場で演ずる劇より臨場感がある。袖口の擦り切れた羽織がある。裾が擦れて幾重にも糸を垂らしている袴がある。縫われてから五年以上が経過した着物もある。これらは真の亡霊とういうわけではないが、この様は衣類の亡霊と言っても過言ではないであろう。しかし、まれにではあるが、ここに裏地も華やかな女性用の着物が吊るされることもある。華やかな着物は人の道を踏み誤って、冥府魔道に迷い込んだようなものだ。しかし、元からある亡霊のような着物たちは、もっと迷惑に感じていることだろう。なぜなら、亡霊のような着物たちも、私と同じく他のものが自分の領分に入ってくることを嫌っているからだ。知らない他人が自分の領域に入ってくるのは我慢ができないほど耐え難いことだ。


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今回の訳も困難であった。

さて、啄木の家の写真である。

啄木新婚の家0104

渋民から見た、北上川と岩手山。


啄木新婚の家0105

啄木新婚の家0106

啄木新婚の家0107

啄木の部屋から入り口側を撮影している。
この建物に入場する人は、誰もこない。
平和だ。


啄木新婚の家0108

啄木新婚の家0109

啄木新婚の家0110

わが四畳半、啄木と節子が生活した部屋だ。
3枚も撮影する意味がわからない。
カメラが勝手に連写した。


啄木新婚の家0111

啄木新婚の家0112

啄木新婚の家0113

啄木の部屋である。
左の障子の奥の部屋は、石川家が玄関として使っていた部屋である。
右の白壁に、青いカビが広がり、亡霊のような、羽織や袴がかかっていたのであろう。







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啄木新婚の家 その9



啄木新婚の家である。
啄木は、岩手日報に掲載した随筆「閑天地」にて、その生活を述べている。
明治のこの時代に、啄木の行動が、いちいち日付までわかるのは、啄木がこうして文筆をしていたからだろう。
さすれば、にゃん吉の行動も、ブログから掘り起こすことができるのか。
残念ながら日付を書かない気分しだいの更新では、日付までの特定は困難だろう。



----青空文庫より-------

(十二) 我が四畳半 (三)

 室の中央、机に添ふて一閑張の一脚あり。これこそは、此処の主人が毎日「閑天地」を草する舞台にて、室は共有なれども、この机のみは我が独占也。筆を生命の我が事業は凡てこの一脚を土台にして建設せらる。何日も見て居乍ら、何時見ても目さむる様の心地せらるゝは、朝顔形に瑠璃色(るりいろ)の模様したる鉢に植ゑし大輪の白薔薇なり。花一つ、蕾一つ、高薫氤(いんうん)、発して我が面をうち、乱れて一室の浮塵を鎮め去る。これはお向の孝(たか)さんの家からの借物なれど、我が愛は初めて姉に女の児の生れたりし時よりも増れる也。其下に去月仙台にて湖畔、花郷(くわきやう)二兄と共に写し来れる一葉の小照(こでらし)を立てかけたり。本が有りさうで無いのは君の室なりと誰やら友の云へる事ありし。一度読んだものを忘れるやうでは一人前の仕事が出来るものにあらず。そんな人は一生復習許りして、辞書に成つて墓穴に這入(はい)るにや、など呑気(のんき)な考へを以て居れば、手にしたものは皆何処かに失くしてしまへど、さりとて新らしい本を切々買ひ込むなどゝ云ふ余裕のある読書家にあらず。この机の上を見ても知らるべし、物茂卿(ぶつもきやう)の跋(ばつ)ある唐詩選と襤褸(ぼろ)になりたる三体詩一巻、これは何れも百年以上の長寿を保ちたる前世紀の遺物なり。今より六代の前、報恩寺に住持たりし偉運僧正(ゐうんそうじやう)が浄書したりと云ふ西行法師の山家集、これは我が財産中、おのれの詩稿と共に可成なるべく盗まれたくなしと思ふ者なり。外にモウパツサンが心理小説の好作『ピール・エンド・ジエン』をクラヽ・ベルが英訳したる一書あり。我が十二三歳の頃愛読したりし漫録集にして永く雲隠れしたりしものを、数日前はしなく父の古本函より発見したる、南城上野雄図馬(なんじやううへのをとま)が『人物と文学』あり。今の人南城を知れる者なし。我も亦この一書によつて彼の名を記憶するに止まれども、彼の才あつて然も杳(えう)として天下に知られざるは心惜しき思せらる。今既に死せりや。猶生きてありや。彼の文は蘇峰の筆に学び得たりと思はるゝ節なきにあらねど、一種の独創あり、趣味あり、観察あり、感慨あり、教訓あり、仙骨あり。我之を繙(ひも)どきてさながら永年相見ざりし骨肉の兄に逢ひたる様の心地したり。この書を読みて俄かに往時の恋しさ堪へがたく、漸やく探し出したる少年時代の歌稿文稿またこの机上に堆(うづ)たかく積まる。書と云ふものこの外になし。新作の詩数篇、我ならでは読まれぬ様に書き散らしたるが、その儘(まま)浄書もせずにあり。硯(すずり)は赤間石(あかまがせき)のチヨイとしたるのなれど、墨は丁子(ちやうじ)墨なり。渋民の小学校にありし頃よく用ひし事あり、丁子と云ふ名はよけれど、之を硯に擦るに、恰(あたか)も軽石に踵(かかと)の垢(あか)を磨く時の如き異様の音す。筆を取らむとする毎に感じよからぬはこれ也。

----青空文庫より-------

さて、今回も無謀にも現代語訳をつけてみよう。
しかし、今回は難しい。
間違いがあったら、教えてほしい。


(十二) 我が四畳半 (三)                        現代語訳 天乃にゃん吉

部屋の中央に、机に沿って一閑張の机がひとつある。(一閑張とは、伝統工芸的なもので、竹などで骨組みを作り和紙などを何枚も張り合わせて作ったり、木や粘土の型に和紙を張り合わせて形を作る技法で昔は机などでも使われていたが現在では高額となるため、高級料理店の食器として使われる程度となっている。)この机こそ、ここの主人(啄木)が毎日、随筆「閑天地」を書く舞台なのだ。部屋は、(三人で)共同で使っているが、この机だけは私だけの空間である。文筆業を生業とする私の作品は、ほとんどこの机の上で書かれているのだ。机はいつも見ているが、いつ何時に見ても目が覚める気持ちにしてくれるのは、朝顔の形で瑠璃色(るりいろ)の鉢に植えられた大輪の白い薔薇だ。花もつぼみも、ひとつひとつが気高い雰囲気を発して、私を刺激する。そして、香りは部屋の埃っぽい雰囲気さえ、しずめさせてしまう。これは向かいの家の、お孝さんの家からの借り物なのだが、姉の生まれたばかりの子供より愛おしく思ってしまう。その下には先月、仙台で湖畔さん花郷さんと一緒に撮った一枚の写真を立てかけてある。(先月、東京からの帰り道で仙台に立ち寄った時に撮影した写真のこと。)「君の部屋には本がありそうでないね。」と、友人に言われたことがある。一度読んだ本の内容を忘れてしまうようじゃ、物書きとして一人前の仕事などできるものではない。一度読んだ本の中身を忘れてしまうような人は、一生涯、復習ばかりをして、辞書のようになって亡くなってしまうだろう。私は、そんな呑気な考えをもっている、一度読んでしまった本は、どこかに無くしてしまうのだ。そうかといって、また新しいものを買い込んで読むほど、お金に余裕のある読書家ではない。私の机をみればわかる。物茂卿のあとがきのある唐詩選(物茂卿は江戸時代前期-中期の儒者の荻生徂徠 おぎゅう-そらい のことらしい。)と、ぼろぼろになった三体詩(三体詩-さんたいし-は南宋の周弼により編集された唐代の詩集。五言律詩、七言律詩、七言絶句の三つが入っているから三体詩といわれる)が一巻、これらの本は、100年以上前に出版された前世紀の遺物といっていいほど古いものだ。報恩寺に六代前に住職としていた偉運僧正が清書したと言われている西行法師の山家集がある。これだけは財産だ。私が書いた詩の原稿と同じく、これだけは盗まれたくない。他にはフランスの作家モーパッサンの心理小説の名作『ピール・エンド・ジエン』を、クララベルが英訳した本がある。また、私が13歳のころに愛読した本をたまたま父の古い蔵書箱から発見した。南城上野雄図馬(ナンジョウ ウエノ オトマ)が書いた『人物と文学』がある。今では南城上野雄図馬を知る人はいない。かくいう私も、この『人物と文学』で、彼の名前を知っているだけだが、彼の才能を考えた時に、ほとんど世に知られていないことは、とても残念なことだと思う。今、南城上野雄図馬は生きているのであろうか、もしくは亡くなってしまっているのだろうか。南城上野雄図馬の文章は、歴史家の徳富蘇峰(とくとみ そほう)の影響を受けているようにも思われるが、独創もある。趣味、観察、感慨深く、教訓となることもあり、重要な仙骨(重要な骨)のようだ。私は、この本を開いて読んだときには、長年あっていない実の兄にあったような気分になったものだ。父の古い蔵書箱から出てきた『人物と文学』を読んで、とたんに当時が懐かしくなった。そして、ようやく探し出した当時の歌や詩の原稿が、この机の上に積み重ねられることとなった。私の書物というのは、この他にはない。新しく書いた詩が数編、書き散らかしたままにして清書もしないままで置いてある。硯(すずり)は、赤間硯というちょっとしたモノだが、墨は丁子(ちやうじ)墨だ。渋民の小学校で学んでいた頃にも、よく使っていたものだ。丁子という名前はきらいではないが、この墨は、硯ですると、かかとを軽石でする時のような音がする。字を書こうと思ったときに、この音は感じが悪い。





さて、現代語訳は合っているのだろうか。
間違っていたら、ごめんなさい。


啄木新婚の家0093

啄木新婚の家0094

啄木新婚の家0095

啄木と節子の部屋にあった、たんすだ。
かなり古めかしいたんすだ。
そして、柱も古めかしい。
いつから置かれていた、たんすだろう。

啄木新婚の家0096

啄木新婚の家0097

啄木新婚の家0098

啄木新婚の家0099

ここで、机に向って、せっせと書き物をする啄木の姿が見えた気がした。
ふりむいた先には、節子さんがいる幸せな時間だったのかもしれない。
盛岡に残る啄木の遺跡がここだけだというのも、なんとなくわかる気がした。


啄木新婚の家0100

啄木新婚の家0101

啄木新婚の家0102

啄木新婚の家0103

これは、節子さんが先生をした当時の写真だそうだ。






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