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ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相

 

老いの愉しみ

好きな我楽多のことや、老いのたわごとを・・・・。  

「啄木忌」、歌人・詩人・評論家石川啄木の忌日

石川啄木2
石川啄木
①盛岡中学の同級生たちと。
前列中央が啄木。

②盛岡中学の先輩で修正啄木を
支援した金田一恭介(左)、「明星」終刊(1908年12月)のころ。

今日(4月13日)は、「啄木忌」。歌人・詩人・評論家石川啄木の1912(明治45)年の忌日。肺結核により27歳の若さで亡くなった。

二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり

ふるさとの山に向ひて    
言ふことなし        
ふるさとの山はありがたきかな

石川啄木「一握の砂」より(最初の歌は煙二に後の2つの歌はわすれがたき人人二の中にあり)。
「故郷は遠きにありて思うもの・・・」とは、昔の人はよく言ったもの
室生犀星(※1:「青空文庫」作家別作品リスト:No.1579参照)の『抒情小曲集』(大七)巻頭の詩「小景異情」その二の冒頭)であるが、この石川啄木(※1:「青空文庫」作家別作品リスト:No.153参照)の歌も、彼が、東京朝日新聞に勤めていた時代に詠んだもので、 従来、一行で発表した短歌を三行書きに改め、新作を加えて、551首とし、『一握の砂』(※1の図書カード:No.816)として1910(明治43)年に刊行された。その郷愁を誘う詩は、多くの人に親しまれている。
歌人・石川 啄木は、1886(明治19)年2月20日、 岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)の
曹洞宗日照山常光寺の住職であった石川一禎(いってい)の長子として生まれる。本名は、石川 一(はじめ)。1887(明治20)年3月に、父が渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住する。この地が石川啄木のふるさとと言ってよいだろう。渋民尋常小学校、盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名、現盛岡一高)で学び、小学校からは盛岡市内に居住する。中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣金田一京助らと知り合う。詩歌雑誌『明星』などを読み与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)らの影響を受け文学への志を抱き、1901(明治34)年12月から翌年にかけて友人とともに地元新聞『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載される。
これが初めて活字となった啄木の短歌であった。1902(明治35)年、文学で身を立てる決意をもって盛岡中学を自主退学して上京、
与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねるが、 発病もあり、翌1903(明治36)年2月父に迎えられ故郷に帰る。5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表、新詩社同人となる。執筆に啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されるなったという。

石川啄木3
③啄木の希望
19歳の啄木が、「希望の歳は来りぬ」と叫んだ婚約者堀合節子と盛岡で撮影したもの。

1905(明治38)年19歳で、処女詩集『あこがれ』(参考※2:「あどけない詩」■石川啄木参照)を刊行。中学時代から恋愛が続いていた節子とも結婚する。
しかし、父親が宗費滞納のため
渋民村の宝徳寺を一家で退去するという事態が起き、両親と妻を養わねばならず、文学どころではなくなり、故郷の渋民尋常小学校で代用教員を務めその後、妻子を置いて函館・小樽・釧路など北海道での新聞社を転々とする生活をしながら、中央文壇の新しい波として盛り上がってきた自然主義作家たちに熱い目を向けていた。1906(明治39)年には島崎藤村が『破壊』を、1907(明治40)年には、田山花袋が『蒲団』を書いて評価を受けているのを見て、どうしても文学への夢を捨てきれなくなった啄木は、妻子を置いたまま、1908(明治41)年22歳の時、釧路新聞社を辞めて、再び上京。・・・といっても生活にあてのあるわけでもない啄木は、与謝野寛・晶子の千駄ヶ谷の家に滞在した後、同郷の友人・金田一京助の援助で本郷区菊坂町赤心館に下宿(以下参考※3:「東京の石川啄木」の「本郷区 菊坂町82番地 赤心館」を参照)。しかし、文運を賭けて上京したものの仕事には恵まれず、小説も売れず、煩悶(はんもん)、自嘲し、死を思う日々もあったようだが、そのような逼迫した生活の中、金田一の友情に支えられてようやく苦境を脱する日がやってくる。なぜか6月23日夜、歌興が湧き、25日までに短歌が次々と生まれ、250首ほどを作る。そして、この2日間の歌の中から140首が『明星』7月号の巻頭を飾る。
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹(かに)とたわむる」・・・
この時、歌は、まだ三行書きではなく、1行書きであった。そして、11月から「東京毎日新聞」への「鳥影」(※1:「青空文庫」の
図書カード:No.4695「鳥影」参照)の連載(59回)を開始するようにもなる。
1909(明治42)年1月1日、「当用日記」に”今日から24歳(数え年)”と記している。『
スバル』創刊、発行名義人になる。また、就職活動が実り、3月1日、東京朝日新聞の校正係となる。ここで啄木ははじめてその才能を正当に評価され、それに報いる仕事を残す事が出来るようになる。そして、4月3日よりローマ字で日記を記している。4,5,6日分。7日より16日の間、新しいノートで家族を迎えるまでの苦悩を『ローマ字日記』に記している。 但し、ローマ字の記述全文が翻字され公刊されたのは啄木死後70年近く経った1970年代の全集刊行時からである。以下参考※4「啄木の息」の「ローマ字日記」・目次」で日記を読むことが出来る。「ローマ字日記」は性的な描写が激しいことでも知られている(※5参照)が、それだけではなく、ここ→・「ROMAZI NIKKI ローマ字日記」解説 桑原武夫を見ると何故ローマ字で日記を書いたか、も良くわかので参照されると良い。
1909(明治42)年6月16日、親友に預けたままの家族(妻子と母)が函館から上京、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る。この日の朝のことを記して「ローマ字日記」は終わっている。 しかし、10月、妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かうも、金田一の尽力で暫く後に戻る。12月になり父も同居するようになる。
翌・1910年(明治43年)、『二葉亭全集』の校正を担当し、朝日新聞歌壇の新設に当っては、初の選者に抜擢されるようになる。10月東雲堂と歌集出版契約。12月に第一歌集『
一握の砂』 (※1:「青空文庫」の図書カード:No.816「一握の砂」参照)を刊行。
この歌集は、以前「明星」に発表したものにその後作ったものを加え、一部削除し、校正し直したものだそうであるが、最終校正している10月4日に、長男真一が誕生、しかし27日には病死したため、啄木は生を受けてわずか24日でこの世を去った愛児の死を悼んで挽歌8首を最後に加えている。
啄木の処女歌集「一握の砂」は、この時、1首3行書きのスタイルに改め新しい表現効果を生み出した。そして、1909(明治42)年に上京した啄木が、貧窮と流浪の生活の実感を平易に歌った歌風が歌壇内外から大きな注目を集め、啄木が歌人としての地位を確立した記念碑的著作となった。
だが、1911(明治44)年7月妻も
肺尖(はいせん)と診断され、8月には、病気回復を願い、環境が少しよい小石川区久堅町へ移る(現・文京区小石川5-11-7宇津木マンション)。9月には父が家出。12月、啄木自身の病気が悪化、発熱が続く。その翌・1912(明治45)年3月7日、母死去。4月9日、親交の深かった土岐善麿が第二歌集刊行の話を啄木に伝えるが、刊行出来ないまま、4月13日、妻、父、友人の若山牧水にみとられるなか27歳の若さで肺結核(ここ参照)で死去。翌・1913(大正2)年、6月20日、第二歌集『悲しき玩具』(※1の図書カード:No.815)を刊行、土岐がタイトルをつけた。
冒頭に書いたふるさとを思う歌の中に出てくる、「ふるさとの山」は岩手富士、南部富士とも呼ばれる
岩手山であろう。故郷にいたときは標高2041メートルのこの山を見上げて話しかけていたのかもしれない。ひたすらに山を思って、山によって自分をいやしている。同じ、岩手県の出身の詩人で童話作家の宮沢賢治の作品にも登場する大きく美しい山も岩手山であるが、賢治が故郷にとどまり理想を求めたのに対して、啄木は「ふるさと」をあとにしている。
啄木の山を恋うる歌、望郷の歌からは、わずか27歳(数え年)で夭折した彼の内面深くを見る思いがする。望郷の思いは、地方から都会へ出てくる多くの青年の心にあるものだが、啄木にはそれがことさら強かったようである。そして、故郷への思いは幼い頃に親しんだ山や森に結びつくことが多いようだ。それにしても、幸せとは余り縁のなかった人生が哀れである。この当時の歌にはまだ、
浪漫詩人の名残りがあるが、1904 (明治37年2月日露戦争が勃発するが、啄木の詩には以下のようなものもある。

ああ偉《おほ》いなる敗者よ、君が名は
 マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
 マカロフなりき。胡天の孤英雄、
君を憶《おも》へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人。
敵《かたき》乍らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神も跼《ひざま》づけ、
 敵も味方も汝《な》が矛地に伏せて、
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。)
ああ偉《おほ》いなる敗将、軍神の
撰《えら》びに入れる露西亜の孤英雄、
 無情の風はまことに君が身に

第二詩集『あこがれ』に収められている「マカロフ提督追悼の詩」よりの一部抜粋である(※2:「あどけない詩」の■詩集[石川啄木] あこがれ(2)のここ参照)。詩の冒頭には以下のように書かれている。
1904(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を迎撃せむとし、愴惶令を下して其旗艦ぺトロバフロスクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。)・・・と。
このときの敵国ロシア帝国海軍中将で、艦隊司令官、海軍科学者でもあったマカロフ提督の死を追悼はしているものの、1910(明治43)年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』(※1:「青空文庫」図書カード:No.4699)を執筆しており、啄木晩年の
社会主義的思想は、同年5月に起きた幸徳秋水事件を転機とするのが分かりやすいが、その短すぎた一生の中の大きな転換期として、1908(明治41)年(22歳)の混沌を(はら)みながらも貧苦の中の現実に目覚め、その中から文学の根拠を見出していたのであった。
そのことは、「弓町より」(※1の「青空文庫」
図書カード:No.496)の中で、そもそも詩人とは何ぞ。として、以下のように書いている。
「私は詩人という特殊なる人間の存在を否定する。詩を書く人を他の人が詩人と呼ぶのは差支ないが、その当人が自分は詩人であると思ってはいけない、いけないといっては妥当を欠くかもしれないが、そう思うことによってその人の書く詩は堕落する……我々に不必要なものになる。詩人たる資格は三つある。詩人はまず第一に『人』でなければならぬ。第二に『人』でなければならぬ。第三に『人』でなければならぬ。そうしてじつに普通人のもっているすべての物をもっているところの人でなければならぬ。」・・・と。
何も特別な人を「詩人」と言うのではない。そして、最後に、「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。――まとまりがあってはならぬ。」・・とも。
冒頭に掲げた「一握の砂」歌の2つ目「山の子の・・」詩だが、三行目の「かなしき時は君を思へり」は、啄木が函館区立弥生尋常小学校の代用教員となった時の小学校の同僚、橘智恵子さんのことらしい。啄木は歌集「一握の砂」の中で”は、わすれがたき人”と題して多くの詩を書いているが、啄木も若い「人」として多くの女性に、心を寄せていたようだ。以下参考の※6及び※4:「啄木の息」の◆ 啄木の女性たち:啄木の人生を彩った「忘れな草」たちなど参考にしながら詩を読まれるとよい。

砂山の砂に腹這(はらば)ひ
初恋の
 いたみを遠くおもひ出いづる日

これは啄木の第1歌集『一握の砂』の中の第1章『我を愛する歌』の6首目の歌であるが、これは啄木の初恋の人(妻節子)を想っての歌だそうであり、これに越谷達之助が曲を付けたがある。良い曲なのでこれを聞いて終わろう。

初恋 石川啄木の短歌 越谷達之助作曲 - YouTube

(画像は、いずれも蔵書の朝日クロニクル「週刊20世紀」、1904年号1908・9年号よりのもの)

参考:

※1:
青空文庫;総合インデックス

※2:あどけない詩

※3:
東京の石川啄木

※4:啄木の息

「ローマ字日記」・目次-啄木の息

※5:赤裸々すぎる浮気の告白! 石川啄木『ローマ字日記』

※6:石川啄木の短歌 100選+1 | ジャパノート.

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