スキップしてメイン コンテンツに移動

ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相

 

石川啄木の生涯と短歌

石川啄木の生涯と短歌

🔴憲法とたたかいのブログトップ 

https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆啄木の動画・資料リンク集

◆はじめての石川啄木朝日新聞

◆石川啄木と歌集=小学館(百科)

◆啄木の日露戦争観・大逆事件観

◆啄木の短歌の紹介=「一握の砂」「悲しき玩具」

──────────────────────────

🔵啄木の動画・資料リンク集

──────────────────────────

★★ルポ・石川啄木「一握の砂」計60m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v126493157gnXeHZAS

または

https://m.youtube.com/watch?v=3SIPp58kXyo

https://m.youtube.com/watch?v=xOIzRBaiGRA

https://m.youtube.com/watch?v=ogrEpwxSOLs

https://m.youtube.com/watch?v=tjscsl19ZcE

★★石川啄木 渋民小学校代用教員時代31m

★★キーン・ドナルド90歳を生きる=石川啄木を語る12m

★★石川啄木と妻・節子~その愛と死 

(驚きももの木20世紀)37m

Youkuをスマホで見る場合、画面下のAPPクリックのこと。YoukuPCで見る場合、Chromを使用して下さい。Firefoxの場合、アドオンにunblock youkuをインストのこと)

★★歴史秘話=啄木と節子の生涯43m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v126492533DKXrXqkc

(赤旗16.09.16

★★石川啄木が愛した盛岡・函館の散策50m

★石川啄木一 「一握の砂」短歌集8m

【左は金田一京助】

★石川啄木記念館6m

★★岩手が生んだ宮澤賢治と石川啄木 朗読 立柳祐一30m

★一握の砂 石川啄木 5m

★一握の砂 文学講座 その壱 石川啄木“31m

★石川啄木 かなしみの詩 14m

(続き=中原中也 悲しみの詩http://m.youtube.com/watch?v=-yQB-OQkWOM)

★石川啄木「そして、歌があふれた」朗読:染谷 将太 9m

★★石川啄木愛される理由20m

https://m.youtube.com/watch?v=JPCAXImGLl8

https://m.youtube.com/watch?v=SmtIfyUQxJw

★★ビーバップ・ハイヒール・現代によみがえる啄木の歌32m 

◆◆青空文庫=石川啄木作品集

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person153.html

◆◆近藤典彦=石川啄木の「一握の砂」全歌評釈(当ブログ4ページにわたり引用)

http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage8.html

(近藤典彦)私は、啄木をもっともっと多くの人に読んでもらいたい、と最近しきりに思います。特に10代後半から40代までの人たち、とりわけ1700万人を超えるという非正規労働者の方々に、啄木の歌集『一握の砂』を読んでもらいたいと思います。

小林多喜二の『蟹工船』が働く人を使い捨てにする社会を告発し、その社会にあって闘うことを訴えた小説であるとすれば、『一握の砂』はそういう社会に生き、闘う人の心(胸のうち)を表現した歌集であるからです。

わたくし自身は『一握の砂』を中学校3年生の時初めて読みました。それ以来50数年の間に数100回は読みました。 汲めども尽きぬ魅力があるからです。一番読みたくなるのは落ち込んだときです。読むと力強くではなく、なんとなく慰められます。それから何だかジワーと生きる力が湧いてきます。 そういう歌集です。

◆啄木と「時代閉塞」

(赤旗17.05.30

◆◆国際啄木学会=若山牧水と啄木

赤旗18.05.22

◆◆近藤典彦=啄木の韓国併合批判の歌

(当ブログで引用)

http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage5.html

資料・啄木の日露戦争論もブログに掲載

(1)所謂今度の事

(2)日露戦争論(トルストイ)

◆石川啄木のトルストイ論(当ブログから)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48165_36757.html(青空文庫)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/8676770.html(当ブログ)

◆石川啄木を巡る戦争と社会主義 鳥飼行博研究室

http://www.geocities.jp/torikai007/bio/takuboku.html

◆◆近藤典彦=啄木の息ブログ

http://d.hatena.ne.jp/takuboku_no_iki/touch

◆◆近藤典彦=「一握の砂」を朝日文庫版で読むブログ

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/633298/533861

◆近藤典彦=啄木略歴

http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage7.html

◆近藤典彦=「一握の砂」アルバム

http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage3.html

◆渡部=石川啄木文学散歩

http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~houki/bungakusanpo/takuboku/takuboku.htm

◆書評・大室=『「一握の砂」「悲しき玩具」編集による表現』

(赤旗17.06.18

◆◆石川啄木日記のすべて(原文)

http://www3.ocn.ne.jp/~sato-net/

◆石川啄木のすべて(主宰の随想)

http://www.ne.jp/asahi/shonan/takuboku/zuihitu5.html

【渋民村】

◆石川啄木と田中正造

http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/sanposano.html

盛岡中学3年生の石川啄木が、谷中村を先頭とする数万余の足尾の農民のたたかいに感動し、明治政府の弾圧に怒り、田中正造の天皇直訴の直後に、谷中村の農民へのカンパ活動をした時に書いたのが「夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや」

◆国際啄木学会

http://www.takuboku.jp/

Wiki=石川啄木

◆石川啄木twitter

https://mobile.twitter.com/takuboku

◆啄木勉強ノート

http://web.archive.org/web/20080221000230/http://www.echna.ne.jp/~archae/index.html

◆石川啄木記念館(盛岡)

http://www.mfca.jp/takuboku/

◆北海道新聞=啄木の風景 生誕120周年記念

http://www5.hokkaido-np.co.jp/bunka/takuboku/index.php3

◆啄木浪漫舘(函館)

http://www.romankan.com/takuboku/

◆啄木の息

http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/harusemikonan.html

◆石川啄木の生涯

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/takuboku.html

【以下のCiNii検索=論文はオープンアクセスをクリックしてPDF】

🔵水野=歌人・石川啄木ゆかりの建築物と啄木ゆかりの地における歴史的環境16p

https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=1424&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=28&block_id=51

🔵福田=石川啄木 : 短歌にみる生と死の表現 (死から生への眼差し)24p

🔵 藤田=〈研究ノート〉 明治時代についての比較文化学的考察 -東アジアの関係を視野に入れて-IV : 日露戦争開始から明治末年まで=石川啄木など11p

🔵 藤田=石川啄木の日本論・対外論13p

🔵池田= 石川啄木研究について (特集 〈日本文学〉研究の新生面を開く) 

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/17393/1/bungeikenkyu_126_249.pdf

🔵水野=『一握の砂』発刊百年後の北海道と盛岡16p

🔵内田=光州で石川啄木を語る14p

🔵黒澤=啄木と渋民 : 村人としての啄木7p

🔵池田= 尹東柱(ユン・ドンジュ)と石川啄木 (小特集 日本文学)29p

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/14889/1/kyouyoronshu_286_19.pdf

🔵 日本産業革命期における「運命」言説の位相 : 石川啄木の生涯を参照系として28p

🔵遊座=講演 1903・啄木百年8p

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5116

🔵池田=石川啄木と旅-漂泊への衝35p

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5116/1/kyouyoronshu_317_%281%29.pdf

🔵長崎=石川啄木試論 : 郷里の意義と影響9p

🔵池田=石川啄木における朝鮮27p

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1193/1/bungeikenkyu_67_119.pdf

🔵松岡=石川啄木について―石川啄木の社会思想の考察―8p

http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hijiyama-u/file/12738/20190808131358/21-3.pdf

🔵今井=啄木晩年の所謂思想転換問題12p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/11/7/11_KJ00010067382/_pdf/-char/ja

🔵岩城=石川啄木研究小史7p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/3/2/3_KJ00010097710/_pdf/-char/ja

◆米地文夫=宮沢賢治「月夜のでんしんばしら」とシベリア出兵 : 啄木短歌・「カルメン」・「戦争と平和」との関係を探るPDF

◆田口=石川啄木と徳富蘇峰 : 〈或連絡〉についてPDF

クリックしてL630taguti.pdfにアクセス

◆藤田=石川啄木の日本論・対外論PDF

クリックして63C16271.pdfにアクセス

◆日景 敏夫=石川啄木のワグネル研究

◆水野 信太郎=石川啄木のいる都市景観北海道函館市–PDF

◆水野 信太郎=『一握の砂』発刊百年後の北海道と盛岡PDF

◆水野 信太郎=北原白秋の作品に見る近代産業と日常生活– 石川啄木との比較を中心に

◆水野 信太郎=石川啄木教員時代の生活空間

◆水野 信太郎=石川啄木晩年の生活空間

◆内田=光州で石川啄木を語る (韓国実態調査特集号)

◆水野 信太郎=啄木作品に見る20世紀初頭の道内生活

◆菊地 =石川啄木「ローマ字日記」のローマ字表記

◆水野 信太郎=石川啄木少年期の生活空間

◆木内 英実=第二次「明星」終刊前後の啄木と晶川 : 青年創作家たちのツルゲーネフ受容

◆小林 康正=日本産業革命期における「運命」言説の位相 : 石川啄木の生涯を参照系として

◆倉田 =石川啄木と小樽PDF56p

クリックしてRLA_109_70-122.pdfにアクセス

◆貞光 =石川啄木をめぐる人々考PDF99p

◆黒澤  =啄木と渋民 : 村人としての啄木

◆川田 淳一郎=啄木の短歌「3行書き」論考

◆箱石 匡行=モーツアルトと石川啄木

クリックしてjcrc-n2p1-5.pdfにアクセス

◆小林 幸夫=石川啄木と「砂」の詩想

◆小林 芳弘=石川啄木と梅川操 : 最後の出合いと別れ

◆小林 芳弘=石川啄木と梅川操

◆岡崎 和夫=石川啄木論(その壱 序章)

◆長崎 紘明=石川啄木試論 : 郷里の意義と影響

クリックしてKJ00000560880.pdfにアクセス

◆近藤 典彦=石川啄木の借金の論理

◆近藤典彦=石川啄木「呼子と口笛」成立過程の内面的考察

クリックして116-03.pdfにアクセス

◆近藤典彦=石川啄木「呼子と口笛」の成立過程を解明するかぎ : 北原白秋「思ひ出」の衝撃的なかかわり

クリックして115-02.pdfにアクセス

◆岡崎 和夫=石川啄木研究資料稿 : 歌稿ノート『一握の砂以後(四十三年十一月末より)』と投稿歌()

◆岡崎 和夫=石川啄木研究資料稿 : 歌稿ノート『一握の砂以後(四十三年十一月末より)』と投稿歌()

◆栗原 万修=ハインリヒ・ハイネと石川啄木(1)http://ci.nii.ac.jp/els/110006993613.pdf?id=ART0008906046&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1403263052&cp=

◆北条 常久=石川啄木「時代閉塞の現状」序論

◆桂 孝二=石川啄木の教育観とその実践について

クリックしてAN00038157_5_1.pdfにアクセス

◆増田 史郎亮=啄木の教育的遺産

クリックしてkyoikuKyK00_01_01.pdfにアクセス

◆陶山 祐二 =石川啄木の詩について

クリックしてKokugoKyoikuKenkyu_6_18.pdfにアクセス

◆桂 孝二=明治441月の石川啄木

クリックしてAN00038157_2_65.pdfにアクセス

◆北条 常久=石川啄木「時代閉塞の現状」序論

──────────────────────

🔵石川啄木を語る

──────────────────────

◆◆新日本歌人協会が啄木祭

◆◆石川啄木、うそと矛盾に現代性 ドナルド・キーンさんに聞く

2016520日朝日新聞

ドナルド・キーンさん=西田裕樹撮影

 現代人は、石川啄木を読むといい。日本文学研究者のドナルド・キーンさんはそう話す。「啄木は、私たち現代人と似ているのです」。明治期に生きた早世の歌人の、何がキーンさんにそう言わせるのか。

買春、ローマ字で日記に

 「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹(かに)とたはむる」。歌集『一握(いちあく)の砂』が有名だが、「啄木の最高傑作は日記だ」とキーンさんは言う。

 啄木は長年にわたって、詳細な日記をつけていた。キーンさんが特に「傑作」とみなすのは、1909年4月から6月にかけて啄木がつづった、いわゆる「ローマ字日記」。

 「なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ」。啄木はローマ字でそう記し、買春を繰り返す日々を赤裸々につづっていく。

 「妻を愛してる」と言いながら売春宿に通い、それを克明に日記に書きながら「読ませたくない」とローマ字を使う。この矛盾こそが、啄木の現代性なのだとキーンさんは言う。

 「読まれたくない、読まれるかもしれない。自分に対するうそがあり、矛盾がある。現代人の特徴の一つです」

 「ローマ字日記」の3年ほど後に亡くなった啄木は、自分が死んだら日記は焼いてしまうように知人に頼んでいたとされる。そこにも啄木の「矛盾」があるとキーンさんはみる。

 「日記にはとてもいい紙が使われている。字もとてもきれい。心のどこかに、これはいつか読まれるべきものだという気持ちがあったのではないでしょうか」

 同じく明治期に活躍した俳人、正岡子規の評伝の著書があるキーンさんは、子規と啄木の違いについて、繰り返し思いをめぐらせたという。今年出した新刊『石川啄木』(角地幸男訳、新潮社)の冒頭で、キーンさんはあえて、「蟹とたはむる」でも「ぢつと手を見る」でもない一首を紹介した。

 「我に似し友の二人よ/一人は死に/一人は牢を出でて今病む」。とても現代的な歌だ、とキーンさん。「子規は泥棒や病気の人のことはうたわなかった。啄木の作品には醜さや恥ずかしさがある。新しい文学なのです」

 けれど今、啄木が多くの人に読まれているとは言いにくい。「理由の一つは、文語体で書かれていることでしょう。でも、苦労して読んだ後に得るものは、とても大きいはずなのです」

 啄木が読まれなくなったのは、より安易で簡単な娯楽が本に取って代わったから、とキーンさんはみる。

 「20年前、東京の電車ではみな本を読んでいた。誇らしい光景でした。今はみなゲームをしています。簡単には面白さがわからないものにこそ、本当は価値があるのですが」

 (柏崎歓)

 1922年生まれ。コロンビア大名誉教授。古典から現代文学まで幅広く研究し、日本文学の国際的評価を高めた。読売文学賞、朝日賞など受賞多数。2012年に日本国籍を取得。

◆◆(書評)『石川啄木』 ドナルド・キーン〈著〉

(赤旗16.04.23

◆◆(書評)『石川啄木』 ドナルド・キーン〈著〉

2016424日朝日新聞

『石川啄木』 「欲望のまま」生身の歌人の姿

 著者は本書をこう書き出す。「石川啄木は、ことによるとこれまでの日本の歌人の中で一番人気があるかもしれない」

 「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」で始まる歌集「一握の砂」所収の短歌は、学校の教科書でなじみ深い。約30年前の学生時代、よく手に取った中公文庫の『日本の詩歌』シリーズ(全30巻別巻1、品切れ)で最も共感を覚えたのが啄木だった記憶がある。

 貧しい暮らしの末に病にかかり、満26歳で世を去った啄木は、夭折(ようせつ)の天才といわれる。少年の面影を残す有名なポートレートは、純真な歌のイメージとマッチしている。そのイメージは間違いではないのだけれど、啄木の足跡を丹念に追った評伝である本書には、それだけにとどまらない、喜怒哀楽がストレートに伝わってくる生身の啄木が息づいている。

 住まいと仕事を転々とする中で、啄木は借金を繰り返し、踏み倒すことが普通になった。不可解な行動で結婚式もすっぽかした。少しまとまったカネが入ると、本を買ったり、飲み食いしたり、女郎屋通いをしたりですぐに使ってしまう。清く正しく貧しかった訳ではなく、やたらといい加減な生活だ。

 しかし、著者は、啄木の『ローマ字日記』を扱った章で、「数々の失敗を重ねながらも親近感を覚えてしまう一人の男に対する愛着」を感じると記す。友達にはしたくないタイプだが、欲望のままに行動して試行錯誤する姿に接し、啄木の人生が身近に感じられた。繊細な心情をすくい取ることができる詩歌の才と、そんな生活があわさったからこそ、傑作が生まれたということが本書で感得できたように思う。

 本書によると、明治を生きた啄木の作品に関心が驚くほど高まったのは「太平洋戦争が終結した直後だった」。傷ついた日本人の心のひだに啄木の詩歌がしみ入ったのかもしれない。

 評・市田隆(本社編集委員)

     *

 『石川啄木』 ドナルド・キーン〈著〉 角地幸男訳 新潮社 2376円

     *

 Donald Keene 22年生まれ。日本文学者、コロンビア大学名誉教授。『明治天皇』など著書多数。

────────────────────

🔵はじめての石川啄木

うそもかわいい人気者

201252日朝日新聞

────────────────────

俳優の段田安則さん

 4月13日は歌人石川啄木の命日だった。26歳で病没してから100年、今なお日本で最も親しまれている歌人の一人だが、その本当の素顔と実力は意外に知られていない。

啄木の意外な素顔

 啄木といえば、泣いたり悲しんだりと感傷的で、貧しさの中で早世した不遇の詩人というイメージがある。だが、実は「天才気取りで生意気な、明るい浪費家だった」と作家関川夏央さんはいう。文豪ではなく、明治という新時代を生きた青年の一人として漫画『啄木日録 かの蒼空(あをぞら)に』の原作を書いた。

 普通なら嫌われ者になりそうだが、かわいいうそつきの啄木は愛された。中学の先輩、のちの言語学者・金田一京助は一時自分の給料で啄木を養い、函館の文学仲間の宮崎郁雨は啄木上京後、残された家族の面倒をみた。師の与謝野鉄幹・晶子もかわいがった。啄木が死んだ時、晶子は啄木のうそを懐かしむ歌を作っている。

 「啄木が嘘(うそ)を云(い)ふ時春かぜに吹かるゝ如くおもひしもわれ」

◆小説家志望だった

 啄木は本当は小説家になりたかった。日本が西欧近代化する過程で、若者は自己や自我を表現する手段を、短歌ではなく小説に求めた。啄木も夏目漱石を目指していた。

 しかし、書いても書いても小説は売れず、行き詰まった時に口をついたのが短歌だった。1908(明治41)年6月、啄木は3日間で281首もの歌を作った。

 たはむれに母を背負ひて

 そのあまり軽きに泣きて

 三歩あゆまず

 有名なこの歌や「東海の」は、この時生まれた。

 それでも啄木は短歌を「玩具=おもちゃ」と軽蔑し続けた。

 「それが新境地をもたらした」と歌人の三枝昂之(たかゆき)さんはみる。りっぱな歌をよむ気がないから、飾らない言葉で何げない出来事や心の動きをうたうことができた。

 こみ合へる電車の隅に

 ちぢこまる

 ゆふべゆふべの我のいとしさ

 青春の文学だった短歌を、働く人々の日常の心の動きをすくいとるものへと広げ、「100年後の今に続く短歌のスタンダードを作った」と三枝さんは評価する。

◆啄木は古くならないのか

 歌集は「一握の砂」と「悲しき玩具」だけだ。だが、そこには青春、病気、貧乏、望郷、都会の孤独、社会変革の意識、家族といった近代日本の、そして現代に続く重要な主題が全部入っている。

 啄木になりかわって歌を現代語訳した『石川くん』の著者、歌人の枡野浩一さんは「啄木はままならない現実に悩む今の若者と同じ。ぼくは40過ぎても時々啄木じゃないかと思う」と話す。

 三枝さんは、21歳から一度もふるさとに帰ることがなかった啄木の望郷の歌が、改めて読み直されると考えている。いま津波と原発事故で、数万の人々が故郷に戻れないでいる。「啄木のうたには万人が自分のふるさとへの思いを託せる普遍性がある」

 かにかくに渋民村は恋しかり

 おもひでの山

 おもひでの川

〈読む〉

 朝日文庫『一握の砂』は初版本の体裁を再現。関川作・谷口ジロー画の『かの蒼空に』は『「坊っちゃん」の時代』第3部(双葉文庫)。三枝著『啄木』(本阿弥書店)、枡野著『石川くん』(集英社文庫)。

〈見る〉

 DVD朗読詩集「明治の文豪 石川啄木の詩」(制作エムティアール)は34作を映像・音楽と共に紹介。DVD「ろくでなし啄木」(ポニーキャニオン)は三谷幸喜作・演出の舞台を収録。虚構のミステリーだ。

〈訪ねる〉

 啄木のふるさと盛岡・渋民の石川啄木記念館(019・683・2315)は没後100年記念企画展「啄木からのメッセージ」を6月30日まで開催中。6月2日に渋民文化会館で啄木祭・没後百年記念フォーラムもある。

 啄木のふるさと盛岡・渋民の石川啄木記念館(019・683・2315)は没後100年記念企画展「啄木からのメッセージ」を6月30日まで開催中。6月2日に渋民文化会館で啄木祭・没後百年記念フォーラムもある。

◆自分笑う 意外なユーモア 俳優・段田安則さん

 思いがけず、昨秋、井上ひさし作「泣き虫なまいき石川啄木」という芝居に、啄木の父親役で出演し、演出もしました。よく知らなかったので、慌てて調べました。

 盛岡の石川啄木記念館にも行きました。印象に残ったのが啄木の等身大の人形がかぶっていた帽子でした。啄木は帽子が好きで、「理想の妻」と書いているそうです。舞台でも最初の登場シーンで帽子をかぶってもらい、小道具として使いました。

 ぼくの啄木像は井上さんの本を通してのものですが、借金してばかりで、ひどいんですが、いとおしく感じる。金田一や宮崎が、なぜか手を差し伸べたくなるものがあったんだろうなと思います。

 歌で好きなのは「古新聞!/おやここにおれの歌の事を賞(ほ)めて書いてあり、/二三行なれど。」ですね。意外にユーモアもある人だったんじゃないか。自慢のようで、自分を笑っている。

 5~6月、東京・世田谷パブリックシアターで、宮沢賢治作品の朗読公演に出演します。賢治は生涯独身で、啄木と正反対。最近は岩手といえば賢治で、それは啄木がかわいそうだと思っています。

◆◆啄木130年「啄木祭」開く(新日本歌人協会)

(赤旗16.05.20

🔴◆◆石川啄木

いしかわたくぼく

小学館(百科)

1886-1912 

歌人、詩人。本名一(はじめ)。明治19220日、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡(もりおか)市玉山(たまやま)区玉山)に生まれる。父はこの村の曹洞(そうとう)宗常光寺住職石川一禎(いってい)。母カツは一禎の師僧葛原(かつらはら)対月の妹。1887年(明治20)の春一禎は北岩手郡渋民(しぶたみ)村(現玉山区渋民)宝徳寺の住職になったので一家はこの村に移った。啄木が生涯「ふるさと」とよんで懐かしがったのはこの渋民村で、現在石川啄木記念館がある。

 啄木は岩手郡渋民尋常小学校を卒業後、盛岡高等小学校に進み、1898413歳のとき、128名中10番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学した。しかし上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、4年生の学年末と5年生の1学期の試験にカンニング事件を起こし、これが原因となって盛岡中学校を退学した。やむなく彼は文学をもって身をたてるという美名のもとに1902年(明治35)の秋上京、新運命を開こうとするが失敗、年末、神田の日本力行会(りっこうかい)に勤務する友人の奔走で、金港堂の雑誌『文芸界』の主筆佐々醒雪(さっさせいせつ)を頼って雑誌の編集員として就職を希望するが実現せず、翌年2月帰郷して故郷の禅房に病苦と敗残の身を養った。

 1902年の夏、アメリカの海の詩集『Surf and Wave』の影響を受けて詩作に志した啄木は、その後与謝野鉄幹(よさのてっかん)(寛(ひろし))の知遇を得て東京新詩社の同人となって『明星』誌上で活躍、055月には東京の小田島書房より処女詩集『あこがれ』を刊行、明星派の詩人としてその前途が嘱望された。しかし前年の暮れ、啄木の父が宗費滞納を理由に曹洞宗宗務局より宝徳寺の住職を罷免されたので、一家はこの年の春盛岡に移り、啄木はやがて堀合節子と結婚して一家扶養の責任を負うことになる。まもなく生活に行き詰まったため06年の春渋民村に帰り、母校の代用教員となった。彼は勤務のかたわら再起を図るため小説家を志し、『雲は天才である』『面影』『葬列(そうれつ)』を書き、また曹洞宗宗憲の発布で特赦となった一禎の宝徳寺復帰に努力した。しかし1年後、小説にも父の再住にも失敗して故郷を去り、北海道に移住するのである。

「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」

 1908年(明治41)の晩春、北海道より上京した啄木は創作生活に没頭、上京後1か月余に『菊池君』『病院の窓』『母』『天鵞絨(ビロード)』『二筋の血』など五つの作品300余枚の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗、ために収入なく生活は困窮した。09年の春彼を窮地から救い東京朝日新聞社の校正係に採用したのは、盛岡出身の同社編集部長佐藤北江(ほっこう)(真一)で、啄木はようやく定職を得て、東京・本郷区弓町二丁目(現文京区本郷)の喜之床(きのとこ)(新井(あらい)こう)の2階に家族を迎えて新生活を始めることができた。109月社会部長渋川柳次郎の厚意で「朝日歌壇」の選者となり、この年の暮れ処女歌集『一握(いちあく)の砂』を刊行。その特異な三行書きの表記法と、「生活を歌う」主題の新鮮さは歌壇内外の注目を浴び、第一線歌人としての地位を確立した。またこの年6月の大逆事件に衝撃を受けて社会主義思想に接近、幸徳秋水やロシアの思想家クロポトキンの著作を愛読して、未来のソシアリスティックな日本を思い描いたが、東京時代につくられた歌集『一握の砂』『悲しき玩具(がんぐ)』、詩集『呼子(よぶこ)と口笛』、評論『時代閉塞(へいそく)の現状』などの代表作は、そうした晩年の思想や生活のなかから生まれたもので、天才啄木の名を不朽のものとした。明治45413日、小石川区久堅(ひさかた)町74番地(現文京区小石川5-11-7)の借家で肺結核で死んだ。享年27歳。文字どおり薄幸にして流亡の生涯であった。

[岩城之徳] 

【石川啄木の墓】

🔴◆◆石川啄木の最後

25歳、前年に続いて大逆事件の公判を追っていた彼は、独自に手に入れた陳弁書から(主犯とされる)幸徳は決して自ら今度のような無謀をあえてする男でないと判断していた。それだけに、被告26名中、11名死刑(半世紀後に全員無罪の再審判決)という結果に大きな衝撃を受ける。この頃の詩稿が死後の詩集『呼子と口笛』になった。以下、啄木の日記より。

『1911年1月18日(死刑宣告当日の日記)

今日ほど予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日ほど昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。2時半過ぎた頃でもあったろうか。「2人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ24人!」そういう声が耳に入った。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君(記者)が渋川氏(社会部長)へ報告していた。予はそのまゝ何も考えなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考えながら丸谷君を訪ねて10時頃まで話した。夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」と書いてあった。』

◆石川啄木=日本無政府主義者陰謀事件經過及び附帶現象

http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48141_47588.html

『1月24日(判決の6日後)

(新聞)社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下11名のことである、あゝ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。

夜、幸徳事件の経過を書き記すために12時まで働いた。これは後々への記念のためである。』

『1月25日(死刑翌日)

昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。(処刑された)内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割った-その事が激しく心を衝いた。昨日12人共にやられたというのはウソで、管野(幸徳の妻)は今朝やられたのだ。かえりに平出君(特別弁護人)へよって幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大いに憤慨していた。』

啄木は慢性腹膜炎の手術後に肺結核を発症。妻が肺カタル(炎症)になったことで家主から立ち退きを迫られ、函館の宮崎郁雨(2年前に啄木の妹と結婚していた)の援助で転居するが、妻と郁雨の関係を疑った啄木は、大恩人の郁雨に絶交を叩き付ける。

26歳(1912年)、年明けに漱石から見舞金が届く。3月に母が肺結核で亡くなり、翌月に啄木もまた肺結核で危篤に陥る。以下の日記は死の約二ヶ月前に書かれた最後のもの。

『2月20日

日記をつけなかった事12日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。39度まで上がった事さえあった。そうして薬をのむと汗が出る為に、体はひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。そうしている間にも金はドンドンなくなった。母の薬代や私の薬代が一日約40銭弱の割合でかかった。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たった一晩家に置いただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。』

啄木が26歳の若さで死に至る最晩年の様子は、親友の金田一京助、若山牧水によって書き残されている。

《亡くなる10日前金田一京助》※一部要約

石川君はその時、『ひょっとしたら自分も今度はだめだ』と言った。『医者は?』と聞くと、『薬代を滞るものだから、薬もくれないし、来てもくれない』という。また『いくら自分で生きたいと思ったって、こんなですもの』と言って、自分で夜具の脇をあげて腰の骨を見せた。ぐっと突立った骨盤の皿。私は覚えず恐い物に蓋をするようにして、『これじゃいけない、何よりも、とにかくまず好きなもので滋養になるものを食べて、少し太る様にしなくちゃ』と言ったら、『好きなものどころか!米さえない』と顔を歪めて笑った。(金田一は処女出版『新言語学』の脱稿直後。自宅に引き返して家族に本の収入が近々ある事を話し、自身の一ヶ月の生活費、十円札を持って駆け戻ってくる)『ほんの少しですけれど』と私が、うつむきながら手を差し出した時、石川君も、節子(妻)さんも、黙って何とも言わなかった。『無躾だったかしら』と心に気遣いながら二人を見ると、石川君は枕しながら、片手を出して拝んでいた。節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとしていた。 私は私で胸がいっぱいになり、誰ひとり物も言わず、しばらく3人は黙りこくって泣いていたのだった。石川君が一等先に口を切って、『こう永く病んで寝ていると、しみじみ人の情けが身にこたえる』『友だちの友情ほど嬉しいものがない』というので『私の言語学が脱稿したので(無理をした金ではない)』と話すと、自分の著述でも出来たように喜んでくれた。

《前々日若山牧水》

死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して険しい顔をして私に語った。『若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見たまえ、そこにある薬がこの2、3日断えているが、この薬を買う金さえあったら僕は今すぐ元気を回復するのだ、現に僕の家には1円26銭の金しか無い、しかももう何処からも入って来る見込は無くなっているのだ』と。

この言葉を受けて若山や友人たちが啄木の創作ノートを持って奔走し、第2歌集『悲しき玩具』の出版契約を結びとる。

《臨終記若山牧水》

細君たちは口移しに薬を注ぐやら唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしていたが私はふとその場に彼の長女(6歳)の居ないのに気がついて、探しに戸外に出た。そして門口で桜の花を拾って遊んでいた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声をたてて泣いていた。老父は私を見ると、かたちを改めて、『もうとても駄目です。臨終のようです』と言った。そして側にあった置時計を手に取って、『9時半か』と呟くように言った。時計は正に9時30分であった。

屋外で満開の桜が散っていくのと歩みを合わせるように、4月13日に啄木は果てた。死の二ヵ月後、

194首を収めて刊行された『悲しき玩具』は各方面で激賞される。時を同じくして次女が生れた。妻は啄木の遺児を懸命に育てたが、彼女もまた肺結核に冒され、夫の死の翌年2人の子を残して26歳で病没した。その後、長女は24歳、次女は18歳で亡くなり、啄木の血は途絶えた。

啄木が函館に暮らしたのは4ヶ月のみだが、彼はよほど風物やその頃の生活が気に入っていたらしく、生前に「死ぬときは函館で」と語っていた。1926年、函館山の南東端にあたり津軽海峡を展望する素晴らしい景観の地、立待(たちまち)岬に宮崎郁雨が『啄木一族の墓』を建立した。墓石の前面には『東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたわむる』(一握の砂)という一首が彫り込まれている。

🔴◆◆石川啄木の日露戦争観・大逆事件観

★当ブログ=鑑賞・近藤典彦=石川啄木の韓国併合批判の歌

以下の歌などの解説は近藤論文参照のこと

誰そ我にピストルにても打てよかし伊藤の如く死にて見せなむ                

地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く

明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも

売ることをさしとめられし本の著者に道にて会へる秋の朝かな 

今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり

常日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり

この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな

わが抱く思想はすべて金なきに因する如し秋の風吹く

秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く

時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな

──────────────────────

🔵石川啄木を巡る戦争と社会主義 

鳥飼行博研究室

──────────────────────

http://www.geocities.jp/torikai007/bio/takuboku.html

石川啄木は、開戦直後「岩手日報」に「戦雲余録」という随筆を寄せ、この戦争は義戦だとしたが、やがてトルストイの非戦論を読んで心が揺れたと、ノートに したためている。(啄木「日露戦争論(トルストイ)」参照) その後、啄木は「大逆(たいぎゃく)事件」(明治天皇暗殺を計画したとの理由から、秋水ら社会主義者 が処刑された弾圧事件)に衝撃を受け、鋭い反応を示した。

日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。

啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)1031日、十七歳で上京し、英語翻訳で生活費を得ようとした。1111日、啄木の姉トラの夫から生活費の送金を受けた。そして、古書店で英語詩集などを買い求めた。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。 

啄木日記

 1902年(明治35年)1112 

快晴、故山の友への手紙かき初む。

 一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む

1902年(明治35年)1113 

快晴、 午前英語。午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。

 猪川箕人兄の文杜陵より来る、人間の健康を説き文学宗教を論じ、更に欝然たる友情を展く。げにさなりき、初夏の丑みつ時の寂寥を破りて兄と中津川畔のベンチに道徳を論じニイチエを説きし日もありきよ、その夜の月今も尚輝れり、あゝ吾のみ百四十里の南にさすらひて、政友とはなるゝこの悲愁!!! まこと今は天の賜ひし貴重なる時也、さなり、思ひのまゝに勉めんかな。友よさらば安かれ。

 日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んでだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日-19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。

「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。

 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。

日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると同時に、東洋や世界の平和のために必要であったと考え、ロシアを光明の中に復活させたいと熱望する自由と平和の義戦であると考えていた。

日露戦争は、19059月のポーツマス講和によって集結した。日露戦争終結の翌年、1906年4月21日、沼宮内町で徴兵検査を受けた。筋骨薄弱のために、最上位の甲種に次ぐ、丙種合格となった。しかし、平時であるために、多くの徴兵合格者同様、徴集免除となっている。

徴兵検査日の啄木日記:「検査が午後一時頃になって、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却って頗る鎖沈して居た。新気運の動いているのは、此辺にも現れて居る。四里の夜路を徒歩で帰った」

石川啄木は、父一禎の宝徳寺住職の再任問題と、啄木自身の渋民尋常高等小学校代用教員辞令を受けていた。

⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)

1904年(明治37)年627Times掲載のトルストイの非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』87日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)

 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

 「—–戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。—-実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」

(『日露戦争論(トルストイ)』青空文庫) 

1904年日露戦争勃発。『岩手日報』に「戦雲余禄』連載。翌年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。文芸誌『小天地』刊行。

1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。小説『葬列』を『明星』に掲載。長女・京子誕生。

1907年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。

1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。11月『東京毎日新聞』に「鳥影」連載開始。翌年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。

 石川啄木は,北海道の四つの新聞社を転々として10ヶ月を過ごし,1908年(明治414月、東京に戻った。『一握の砂』の刊行は、191012月である。

 (⇒小樽啄木忌の集い 講演「小樽のかたみ」のおもしろさ:新谷 保人,北海道雑学百科:北海道生まれの文学・石川啄木,および〈亀井秀雄の発言〉文学館の見え方(啄木の現実)引用)

.石川啄木は,資本主義の発展の中で,学生,知識人が無気力感、虚無主義(ニヒリズム)に苛まれている状況を,「時代閉塞の現状」で吐露した。

190814日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。

1909年4月12日の啄木日記には「予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。」とある。

石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」  

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格(かんかく)があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」

 かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。

けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤(せんしょう)として一部の間に認められているごとく、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)

 樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。

 この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐(きゅうこう)の天に飛翔することを許さなかったのである。

 第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」

 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

 さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。

 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

7.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者,社会主義思想だった。しかし,石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調した。

石川啄木『所謂今度の事』

やがて彼等はまた語り出した。それは「今度の事」についてであった。今度の事の何たるかはもとより私の知らぬ所、また知ろうとする気も初めは無かった。すると、ふと手にしている夕刊のある一処に停まったまま、私の眼は動かなくなった。「今度の事はしかし警察で早く探知したからよかったさ。焼討とか赤旗位ならまだいいが、あんな事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」そう言う言葉が私の耳に入って来た。「僕は変な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年からさんざん味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのをわざとあんなに新聞で吹聴させたんだって噂もあるぜ。」そう言う言葉も聞えた。「しかし僕等は安心して可なりだね。今度のような事がいくら出て来たって、殺される当人が僕等でないだけは確かだよ。」そう言って笑う声も聞えた。私は身体中を耳にした。今度の事と言うのは、実に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈弾事件の事だったのである。

 三人の紳士が、日本開闢以来の新事実たる意味深き事件を、ただ単に「今度の事」と言った。これもまた等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言い方だろう!」私は快く冷々するコップを握ったまま、一人幽かに微笑んで見た。

 間もなく私もそこを出た。そうして両側の街灯の美しく輝き始めた街に静かな歩を運びながら、私はまた第二の興味に襲われた。それは我々日本人のある性情、二千六百年の長き歴史に養われて来たある特殊の性情についてであった。この性情は蓋し我々が今日までに考えたよりも、なお一層深く、かつ広いものである。かの偏えにこの性情に固執している保守的思想家自身の値踏みしているよりも、もっともっと深くかつ広いものである。そして、千九百余年前のユダヤ人が耶蘇キリストの名をあからさまに言うを避けてただ「ナザレ人」と言った様に、ちょうどそれと同じ様に、かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた、それもまた恐らくはこの日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。 

 蓋し無政府主義という語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機会は、今日までの所、前後二回しかない。無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。中には特にその思想、運動の経過を研究して、邦文の著述をなした人すらある。しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。

 その一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。その婦人等日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、よろづに控え目であるべきはずの婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

 少数の識者があって、多少芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社会主義者諸君、諸君が今にしてそんな軽率な挙動をするのは、決して諸君のためではあるまい。そんな事をするのは、ようやく出来かかった国民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。今日になってみれば、そのいわゆる識者の理解なるものも、決して徹底したものであったとは思えない。「我は無政府主義者なり。」と言う者を「社会主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを証明しているではないか。

 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。

 今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。—-新聞も、ただ叙上の事実と、及び彼等被検挙者の平生について多少の報道をなす外にしかたがなかった。そしてかく言う私のこの事件に関する知識も、ついに今日までに都下の各新聞の伝えた所以上に何物をももっていない。

 もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。ただに迅速に、かつ遺漏なく犯罪者を逮捕したというばかりでなく、事を未然に防いだという意味において特にそうである。過去数年の間、当局は彼等いわゆる不穏の徒のために、ただに少なからざる機密費を使ったばかりでなく、専任の巡査数十名を、ただ彼等を監視させるために養って置いた。かくのごとき心労と犠牲とを払っていて、それで万一今度の様な事を未然に防ぐことが出来なかったなら、それこそ日本の警察がその存在の理由を問われてもしかたのない処であった。幸いに彼等の心労と犠牲とは今日の功を収めた。

 それに対しては、私も心から当局に感謝するものである。蓋し私は、極端なる行動というものは真に真理を愛する者、確実なる理解をもった者の執るべき方法で無いと信じているからである。正しい判断を失った、過激な、極端な行動は、例えば導火力の最も高い手擲弾のごときものである。未だ敵に向って投げざるに、早く已に自己の手中にあって爆発する。私は、たとえその動機が善であるにしろ、悪であるにしろ、観劇的興味を外にしては、我々の社会の安寧を乱さんとする何者に対しても、それを許すべき何等の理由をもっていない。もしも今後再び今度の様な計画をする者があるとするならば、私はあらかじめ当局に対して、今度以上の熱心をもってそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。

 しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。

 ヨーロッパにおける無政府主義の発達及びその運動に多少の注意を払う者の、まず最初に気の付く事が二つある。一つは無政府主義と言わるる者の今日までなした行為は凡て過激、極端、凶暴であるに拘わらず、その理論においては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問わず、ほとんど何等の危険な要素を含んでいない事である。—-も一つは、それら無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事である。これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者があるからという洒落ではない。

 前者については、私は何もここに言うべき必要を感じない。必要を感じないばかりでなく、今の様な物騒な世の中で、万一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうける様な事があっては、迷惑至極な話である。そしてまた、結局私は彼等の主張を誤りなく伝える程に無政府主義の内容を研究した学者でもないのである。が、もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人があって、その人が他日かの無政府主義者等の所説を調べてみるとするならば、きっと入口を間違えて別の家に入って来たような驚きを経験するだろうと私は思う。彼等のある者にあっては、無政府主義というのはつまり、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬に過ぎない。またある者にあっては、相互扶助の感情の円満なる発現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言ってるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言い、相互扶助の感情と言うがごときは、いかに固陋なる保守道徳家にとっても左まで耳遠い言葉であるはずがない。もしこれらの点のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている、無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。人類の未来に関する我々の理想は蓋し一である洋の東西、時の古今を問わず、畢竟一である。ただ一般教育家および倫理学者は、現在の生活状態のままでその理想の幾分を各人の犠牲的精神の上に現わそうとする。個人主義者は他人の如何に拘わらずまず自己一人の生涯にその理想を体現しようとする。社会主義者にあっては、人間の現在の生活がすこぶるその理想と遠きを見て、因を社会組織の欠陥に帰し、主としてその改革を計ろうとする。而してかの無政府主義者に至っては、実に、社会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げようとする者である。以上は余り不謹慎な比較ではあるが、しかしもしこのような相違があるとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、その理論の堂々として而して何等危険なる要素を含んでいないに拘わらず、未だ調理されざる肉を喰らうがごとき粗暴の態と、小児をして成人の業に就かしめ、その能わざるを見て怒ってこれを蹴るがごとき無謀の挙あるは敢えて怪しむに足るのである。

 五 —-地理的分布言う意味は、無政府主義とヨーロッパに於ける各国民との関係という事である。

 凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。—–ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。そして今ここ無政府主義に於ては、第一は主としてその理論的方面に、第二はその実行的方面に関係した。

 第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考える時に、直ぐ気の付く所である。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なるプルウドンの理論のすこぶる鋭敏な直観的傾向を有して、而して時に感情にはしらんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各々の属する国民ドイツ人、フランス人、ロシア人という広漠たる背景を考うることなしには、我々の正しく理解する能わざる所である。

 そして第二の関係その国の政治的、社会的状態と無政府主義の関係は、第一の関係よりもなお一層明白である。  (青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

◆所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。

.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,国体に反する危険思想であり,弾圧された。この時代閉塞の状況に,不安を感じていた芥川龍之介は,自ら命を絶った。

一握の砂

(小学館百科全書)

石川啄木(たくぼく)の処女歌集。1910年(明治43)東雲堂書店刊。一首三行書きの短歌551首を「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套(てぶくろ)を脱ぐ時」の5章に分けて収めてある。いずれも東京時代の作歌で都会生活の哀歓を歌った作品と、渋民(しぶたみ)村(現盛岡(もりおか)市玉山(たまやま)区渋民)、盛岡、北海道を歌った回想歌に分かれる。代表作は「はたらけど/はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る」「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」など。歌集の特色は生活のなかから得た青春の感懐を、庶民のことばでわかりやすく表現しているところにあり、その独自の歌風は長く国民の広い層に親しまれている。

[岩城之徳] 

悲しき玩具

(小学館百科全書)

石川啄木(たくぼく)の第二歌集。1912年(明治45)東雲堂書店刊。書名は友人の土岐哀果(ときあいか)(善麿(ぜんまろ))が命名。内容は東京時代の作品194首が三行書きで収められ、ほかに「一利己主義者と友人との対話」「歌のいろいろ」の歌論を収録。代表作には「新しき明日(あす)の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘(うそ)はなけれど」など、時代に先駆けした文学者のおもかげを伝えるものや、「胸いたみ、/春の霙(みぞれ)の降る日なり。/薬に噎(む)せて、伏して眼(め)をとづ。」など、啄木最終期の生活を直截(ちょくせつ)に表現したものが多い。夭折(ようせつ)した天才の灰色の生活と思想の記録として短歌史上不朽の生命をもち、その生活に即した独自の歌風は大正以後の歌壇に影響を与えた。

[岩城之徳] 

よぶことくちぶえ

呼子と口笛

(小学館百科全書)

石川啄木(たくぼく)の第二詩集。1911年(明治44615日から27日にかけてつくられた、「はてしなき議論の後」「ココアのひと匙(さじ)」「激論」「書斎の午後」「墓碑銘(ぼひめい)」「古びたる鞄(かばん)をあけて」「家」「飛行機」の八編の詩からなり、啄木の死後友人の土岐哀果(ときあいか)(善麿(ぜんまろ))によって13年(大正25月東雲堂書店から刊行された『啄木遺稿』によって初めて紹介された。詩集としては未完成であるが、幸徳秋水らの大逆事件直後のいわゆる社会主義の「冬の時代」のなかから生まれたもので、啄木の社会主義への憧憬(しょうけい)と芸術的達成を示す佳作として広く注目され、日本の近代詩に新生面を開いた。

[岩城之徳] 

─────────────────────

🔵石川啄木詩集から抜粋

─────────────────────

🔴【一握の砂】

初版

東海《とうかい》の小島《こじま》の磯《いそ》の白砂《しらすな》に われ泣《な》きぬれて 蟹《かに》とたはむる

砂山の砂に腹這《はらば》ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出《い》づる日

いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握《にぎ》れば指のあひだより落つ

たはむれに母を背負《せお》ひて そのあまり軽《かろ》きに 三歩あゆまず

何《なに》となく汽車に乗りたく思ひしのみ汽車を下《お》りしに ゆくところなし

こころよき疲れなるかな 息もつがず 仕事をしたる後《のち》のこの疲れ

我に似し友の二人《ふたり》よ 一人は死に 一人は牢《らう》を出《い》でて今病《や》む

はたらけど はたらけど猶《なほ》わが生活《くらし》楽にならざり ぢっと手を見る

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂《しと》げて死なむと思ふ

ことさらに燈火《ともしび》を消して まぢまぢと思ひてゐしは わけもなきこと

教室の窓より遁《に》げて ただ一人 かの城址《しろあと》に寝に行きしかな

不来方《こずかた》のお城の草に寝ころびて空に吸はれし 十五《じふご》の心

盛岡《もりをか》の中学校の露台《バルコン》の 欄干《てすり》に最一度《もいちど》我を倚《よ》らしめ

そのかみの愛読の書《しよ》よ 大方《おほかた》は 今は流行《はや》らずなりにけるかな

そのむかし秀才《しうさい》の名の高かりし友牢《らう》にあり 秋のかぜ吹く

ふるさとの訛《なまり》なつかし 停車場《ていしやば》の人ごみの中に そを聴《き》きにゆく

かにかくに渋民村《しぶたみむら》は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

石をもて追はるるごとく ふるさとを出《い》でしかなしみ 消ゆる時なし

やはらかに柳あをめる 北上《きたかみ》の岸辺《きしべ》目に見ゆ泣けとごとくに

そのかみの神童《しんどう》の名の かなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと

ふるさとの停車場路《ていしやばみち》 の川ばたの 胡桃《くるみ》の下に小石拾《ひろ》へり

ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

草に臥(ね)て おもふことなし わが額(ぬか)に糞して鳥は空に遊べり

やはらかに積れる雪に 熱(ほ)てる頬を埋むるごとき 恋してみたし

路傍(みちばた)に犬ながながと呻(あくび)しぬ われも真似しぬ うらやましさに

新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓えたる腹に沁むがかなしも

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

興(きよう)来(きた)れば 友なみだ垂れ手を揮(ふ)りて 酔漢(よいどれ)のごとくなりて語りき

飴売のチャルメラ聴けば うしなひし おさなき心ひろへるごとし

青に透く かなしみの玉に枕して 松のひびきを夜もすがら聴く

長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな

ごおと鳴る凩(こがらし)のあと 乾きたる雪舞ひ立ちて 林を包めり

寂莫(せきばく)を敵とし友とし 雪のなかに 長き一生を送る人もあり

死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉の痍(きず)を見せし女かな

葡萄色(えびいろ)の 古き手帳にのこりたる かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな

朝の湯の 湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載せ ゆるく息する物思ひかな

しめらへる煙草を吸へば おほよその わが思ふことも軽(かろ)くしめれり

あさ風が電車のなかに吹き入れし 柳のひと葉 手にとりて見る

ほそぼそと 其処(そこ)ら此処(ここ)らに虫の鳴く 昼の野に来て読む手紙かな

夜おそく つとめ先よりかへり来て 今死にしてふ児を抱けるかな

おそ秋の空気を 三尺四方(さんじやくしほう)ばかり 吸ひてわが児の死にゆきしかな

かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり

🔴【悲しき玩具】

一握の砂以後―

呼吸(いき)すれば、 胸の中(うち)にて鳴る音あり。 凩(こがらし)よりもさびしきその音!

途中にてふと気が変り、 つとめ先を休みて、今日も、 河岸をさまよへり。

本を買ひたし、本を買ひたしと、 あてつけのつもりではなけれど 妻に言ひてみる。

家を出て五町ばかりは、 用のある人のごとくに 歩いてみたれど――

何となく、 今朝は少しく、わが心明るきごとし。 手の爪を切る。

途中にて乗換の電車なくなりしに、 泣かうかと思ひき。 雨も降りていき。

しっとりと 酒のかをりにひたりたる 脳の重みを感じて帰る。

新しき明日の来(きた)るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど――

朝寝して新聞読む間なかりしを 負債のごとく 今日も感ずる。

よごれたる手を洗ひし時の かすかなる満足が 今日の満足なりき。

何となく、 今年はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風無し。

いつの年も、 似たよな歌を二つ三つ 年賀の文(ふみ)に書いてよこす友。

何となく明日はよき事あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る。

すっぽりと蒲団をかぶり、 足をちぢめ、 舌を出してみぬ、誰にともなしに。

百姓の多くは酒をやめしといふ。 もっと困らば、 何をやめるらむ。

あやまちて茶碗をこはし、 物をこはす気持のよさを、 今朝も思へる。

古新聞! おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、 二三行なれど。

笑ふにも笑はれざりき―― 長いこと捜したナイフの 手の中(うち)にありしに。

この四五年、 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。 かうもなるものか?

そうれみろ、 あの人も子をこしらへたと、 何か気の済む心地にて寝る。

『石川はふびんな奴だ。』ときにかう自分で言ひて、かなしみてみる。

真夜中にふと目がさめて、 わけもなく泣きたくなりて、 蒲団をかぶれる。

話しかけて返事のなきに よく見れば、 泣いていたりき、隣の患者。

ぼんやりとした悲しみが、 夜(よ)となれば、 寝台(ねだい)の上にそっと来て乗る。

看護婦の徹夜するまで、 わが病ひ、 わるくなれとも、ひそかに願へる。

もう嘘をいはじと思ひき―― それは今朝―― 今また一つ嘘をいへるかな。

何となく、 自分を嘘のかたまりの如く思ひて、 目をばつぶれる。

薬のむことを忘るるを、 それとなく、 たのしみに思ふ長病(ながやまひ)かな。

ボロオヂンといふ露西亜名(ロシアな)が、 何故ともなく、幾度も思ひ出さるる日なり。

まくら辺に子を坐らせて、 まじまじとその顔を見れば、 逃げてゆきしかな。

時として、 あらん限りの声を出し、 唱歌をうたふ子をほめてみる。

何思ひけむ―― 玩具をすてておとなしく、 わが側に来て子の坐りたる。

或る市(まち)にいし頃の事として、 友の語る 恋がたりに嘘の交るかなしさ。

ひさしぶりに、 ふと声を出して笑ひてみぬ―― 蝿の両手を揉むが可笑しさに。

五歳になる子に、 何故ともなく、ソニヤといふ露西亜名(な)をつけて、 呼びてはよろこぶ。

ある日、ふと、やまひを忘れ、 牛の啼(な)く真似をしてみぬ―― 妻子(つまこ)の留守に。

かなしきは我が父! 今日も新聞を読みあきて、 庭に小蟻と遊べり。

児を叱れば、 泣いて、寝入りぬ。 口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。

ひる寝せし児の枕辺に 人形を買ひ来てかざり、 ひとり楽しむ。

庭のそとを白き犬ゆけり。 ふりむきて、 犬を飼はむと妻にはかれる。

本を買ひたし、本を買ひたしと、

あてつけのつもりではなけれど

妻に言ひてみる。

なつかしき

故郷にかへる思ひあり、

久し振(ぶ)りにて汽車に乗りしに。

新しき明日(あす)の来(きた)るを信ずといふ

自分の言葉に

嘘(うそ)はなけれど――

何(なん)となく明日はよき事あるごとく

思ふ心を

叱(しか)りて眠る。

「労働者」「革命」などといふ言葉を

聞きおぼえたる

五歳の子かな。

🔴「はてしなき議論の後」など

◆はてしなき議論の後(一)

暗き、暗き曠野(くわうや)にも似たる

わが頭脳の中に、

時として、電(いなづま)のほとばしる如(ごと)く、

革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、

かの壮快(さうくわい)なる雷鳴(らいめい)は遂(つひ)に聞

え来らず。

我は知る、

その電に照し出さるる

新しき世界の姿を。

其処(そこ)にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、

しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる

わが頭脳の中に

時として、電のほとばしる如く、

革命の思想はひらめけども――

◆はてしなき議論の後(二)

われらの且(か)つ読み、且つ議論を闘(たたか)はすこと、

しかしてわれらの眼の輝けること、

五十年前の露西亜(ロシア)の青年に劣らず。

われらは何を為(な)すべきかを議論す。

されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓(たく)をたた

きて、

‘V NAROD !’(ヴナロード)と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、

また、民衆の求むるものの何なるかを知る、

しかして、我等の何を為すべきかを知る。

実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。

されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

‘V NAROD !’ と叫び出づるものなし。

此処(ここ)にあつまれる者は皆青年なり、

常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。

われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂(つひ)に勝つべきを知る。

見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。

されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭(らふそく)はすでに三度も取りかへられ、飲料(のみもの)の茶碗(ちやわん)には小さき羽虫の死骸(しがい)浮び、若き婦人の熱心に変りはなけれど、その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

◆ココアのひと匙(さじ)

われは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪(うば)はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らんとする心を、

われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷(さ)めたるココアのひと匙(さじ)を啜(すす)りて、

そのうすにがき舌触(したざは)りに

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。

◆激論

われはかの夜の激論を忘るること能(あた)はず、

新らしき社会に於(お)ける「権力」の処置に就(つ)きて、

はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと

我との間に惹(ひ)き起されたる激論を、

かの五時間に亙(わた)れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家(せんどうか)の言なり。」

かれは遂(つひ)にかく言ひ放ちき。

その声はさながら咆(ほ)ゆるごとくなりき。

若(も)しその間に卓子(テエブル)のなかりせば、

かれの手は恐らくわが頭(かうべ)を撃ちたるならむ。

われはその浅黒き、大いなる顔の

男らしき怒りに漲(みなぎ)れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。

或(あ)る一人の立ちて窓を明けたるとき、

Nとわれとの間なる蝋燭(らふそく)の火は幾度か揺れたり。

病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬(ほほ)に、

雨をふくめる夜風の爽(さはや)かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、

われらの会合に常にただ一人の婦人なる

Kのしなやかなる手の指環(ゆびわ)を忘るること能(あた)は

ず。

ほつれ毛をかき上ぐるとき、

また、蝋燭の心(しん)を截(き)るとき、

そは幾度かわが眼の前に光りたり。

しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。

されど、かの夜のわれらの議論に於いては、

かの女(ぢよ)は初めよりわが味方なりき。

◆わが友は、今日も

我が友は、今日もまた、

マルクスの「資本論(キヤプタル)」の難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、

黄色なる小さき花片(はなびら)が、ほろほろと、

何故(なぜ)とはなけれど、

ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、

身の丈(たけ)三尺ばかりなる女の、

赤き扇(あふぎ)をかざして踊るを、

見世物(みせもの)にて見たることあり。

あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は――

ただ一度我等の会合に出て

それきり来なくなりし――

あの女は、

今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心(しづごごろ)なさ。

◆飛行機

見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に

飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が

たまに非番の日曜日、

肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、

ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に

飛行機の高く飛べるを。

 1910.8

「時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。明日の考察、これ実に我々が今日に於いて為すべき唯一である。さうしてまたすべてである」

🔴憲法とたたかいのブログトップ

https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい 

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

コメント

このブログの人気の投稿

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。